めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

いのししのとし

 

新年あけましておめでとうございます。

 

めふぁにっきです。

 

戌年が終わって亥、イノシシの歳です。

 

特にこれと言ってイノシシにまつわる小噺もございません。寒空の下を2時間散歩、ゲームで年を越すなどの徹底した不養生の甲斐あってか、長引いた風邪がじわじわと落ち着いてまいりました。

 

新年もこんな具合でのらりくらり、漏れなくダブりなくぬかりなくやっていきたいと思います。

 

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▲パエのリア 新年明けまして飯テロ

 

普段少し高めの声で話している私ですが、

風邪と寝起きの時はやたらと声が低くなります。

 

結果、実家には先住民の弟と同じ声をした人間が増えて、正月早々うちの両親がよくバグって

私と弟の区別がつかなくなってます。

 

スポーツマンでスタイルが良くてクリスマスに彼女連れてくる、Over Watchゲーマーが弟で、

オタクで足が短くてクリスマスに散髪して、Cities skylinesやってるのがめふぁなんですがね…

 

親やってると似たようなのが急に何人も家に増えて大変なんでしょうね。

 

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▲ニクのメシ

 

やるやる詐欺に定評のあるめふぁですが、

今年はゆる〜いネットラジオとかやってみたいなぁとぼんやり思ってます。

 

ツイキャスとか流行ってた時期は始めどきだったんでしょうけど

なんとなくカタチに残らないのは嫌だなあと思って、かといってUstream配信をするでもなく結局何もしませんでした。

 

2018年はあちこちイベントに出かけて、ただ漠然と何か作りたいなあ…と思うだけだったので、2019年は「とりあえずゆる〜くはじめてみる」で行きたいと思います。

 

昨年『めふぁにっき』を読んでくださった方、本当にありがとうございました。

「時々読んでるよ!」とかいってもらえるのがとても励みになります。

今年もこんな感じで元気にやって行きたいと思います。

 

 

 

ナオンとデートで3万が飛ぶ

 

 

めふぁにっきです。 

 

3万飛びません。飛ぶ3万も飛ばすナオンもいないです。

 

毎年クリスマスは体調崩すとかそういうイベントがあるので、

さすがに今年は何もないだろうとタカをくくって油断していたら

クリスマスの後に風邪を引きました。コンテンツ力の神様ありがとう。

 

ちなみにクリスマス当日はクリパの誘いとかお断りして

近所の激ウマ中華屋で激ウマ定食食べたり、散髪しにいったりしてました。

 

さすがにクリスマスなので、

いつもお世話になっている美容室は18時ピタ(ろくぴた)でお店を閉めてました。

閉まってました。

 

美容師ってモテ職業だし

クリスマスの夜に仕事したくないだろお前ら!

とっとと帰って彼女と過ごせ!

的なノリで早あがりしてると考えたら

ホワイト企業じゃん、オーナーさんいい人だな、いいなあと思いながら

行きつけに入りそこねた私は近くの床屋に浮気しました。

ゴメンネ。年明けにはまた行くから許して。

 

床屋に入るとガラッガラでした。クリスマスですから。

奥からそれはそれは綺麗な美容師のおねえさんが出てきました。

いいですね、ツイてる日ですね、クリスマスですから。

 

でも美容師のお姉さんは怪訝な顔で見てきます。

ちょっと自意識過剰かとも思ったんですが、

街の美容室が片っ端から閉まっているところを見ると

やはりクリスマスに散髪する若者というのは珍種のようです。

 

なにはともあれ年の瀬に髪がさっぱりしました。ありがとうおねえさん。

 

 で、その後 短髪でコートも着ないで街をうろついていたら見事風邪ひきました。

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ナオンの人とクリスマスにディナーを食べるってのやったことないんです。

なんかあれフレンチで3万とかするらしいじゃないですか。

フレンチってなんかスカしてて好きくないですね言葉が。

フラ飯ですよ要は。

 

めふぁ家は圧倒的イタ飯派ですので、フランスの飯のことも差別なくフラ飯と呼ぶのです。そもそもフラ飯の起源を辿るとイタリアの宮廷料理なのだ。

フラ飯で何が悪い。

 

マジモンのちゃんとしたフラ飯、多分小さい頃に両親が『料理の鉄人』に出ていたフレンチフラ飯に行こうってノリで連れて行かれたの以来です。

なんか銀のお皿に銀の蓋がしてあって、開けたら料理が出てくるやつ。

中身の記憶は全然ないです。

 

 

とにかくフラ飯はお高いんですよ、フラ飯だけじゃなくて 

フラ飯代、時計代、スーツ代、酒代、ホテル代、タクシー代もろもろ…

いろいろ考えたら12月の男の子って破産寸前だよなあというお話で、

レストランのガスト先輩がおもしろいTwitter広告出してました。

 

 

クリスマスにウチに来てとは言わないけど普段のお店としてはよろしくね~ 的な

嫌いじゃないです。私この広告のターゲットではないけど。

 

 性欲と食欲を同時に発動できない悲しい生き物なので、フラ飯だろうがイタ飯だろうが、飯の味がわかる野郎と舌鼓を打ちながら食べたいなあというのがあります。

 

中華やイタ飯は友達と食べられるお店があるけど、フラ飯はあまり気軽なお店ないよなあという印象。(偏見)

敷居が高いというか、ナオン様御用達になっちゃうというか。

 

夏場にしこたま麻婆豆腐食べたい!!は全然アリだけど

夏場にラタトゥユめっちゃ食べたい!!はなんかあってもよさそうなのにない気がする。

とてももったいない。

 

友と酒と料理を嗜むことをこよなく愛する男のためのフラ飯屋。

どこかおすすめあったら教えてください。

 

以上 日本のナオンとフラ飯屋の悪口でした。

 

▼古き良きフランスの酔っぱらいの図。酔っぱらいには神様がついている。

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サンプルを録る感性

 

めふぁにっきです。

 

充実のオタクライフをしております。
財布は痩せていきます。
なぜでしょう。

 

サウンドクラウドとかで音楽を聴いているとよく聞くサンプル音源というのが出てきます。シャウトとか銃撃とか、有名な曲のワンフレーズとかを切り取って(サンプルして)音源の一つにしてしまうような使い方のことです。

 

有名な人が作ったサンプルや、使い勝手のいいサンプルはあちこちでオマージュとして使い回されて、そのうち、このジャンルの楽曲にはよく使われてる「なんか聴いたことある音」になります。

 

そんなよく聞くサンプルたちの元ネタを探してるとようこんなところから音源拾ってくるな〜というのがよくあります。

▼参考

iFLYER: この曲の元ネタは何?EDMアーティストたちがサンプリングした意外な元ネタをまとめて紹介!

 

今回はサンプリングのコアな話じゃなくて、(ぶっちゃけわからないけど)それっぽいサンプルを取ってくる人の感性ってこんななんじゃないかな?という勝手な想像のお話。

芸人さんやラジオパーソナリティのネタとかの中にも「この前、こんなことあったんですよ〜」という日常の一部を切り取る部類のネタがあると思うんです。

 

普段日常を生きている中で
(あっ俺この瞬間ものすごくオイシイ!!!これはすごいネタになるのでは??)
という瞬間を捉えて、切り取って、ネタ帳に書き留めておいて収録の場面までにはなんとなく話を組み立てて、「このまえこんなことがあったんですよー」と話す流れがあるとすると、これもある種のサンプリングと言えなくもないですか…?知らんけど。

 

ツイッターでコンテンツ力を高めたいと思ってる人も、これはコンテンツ力が高まるイベントが発生したぞ…!と思えばその瞬間を逃さないし、インスタ女子もオシャレなカフェとか、フォトジェニックな景色とかを目ざとく見つけるし、みんな日常を素材にして自分なりのサンプルを取って世界観を作ってるわけです。

 

無意識のどこかで「こういうのほしいなー」というマインドセットがあるからこそ、いざ日常の中で「それ」に出会った瞬間に秒で反応できる気がします。

 

旅行で飛行機に乗ると、私はいつも荷物が多いので、出口で荷物受取のために、似たようなトランクが延々と流れてくるベルトコンベアから自分のトランクを見つける場面に毎回出くわします。あれだけトランクがある中で、ほとんどの人はかなり高精度に自分の荷物を見分けて受取を済ませ、空港を去っていきます。

 

何も意識をしなければただ漫然と流れていくトランクの流れの中で、漠然とでも「こういうステッカーが貼ってあって」「革製で」というイメージを持っている人だけが、自分のトランクを見つけられる。


同じように、漠然と「ほしいモノ」のイメージを持っている人だけが、日常に埋もれてる神音源に気づいて、切り取って自分の作品に使うことができる、これが「サンプリングの心性」なんじゃないかと思います。

 

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▲飯テロ画像(ブログネタのサンプリング)

 

ガチャ回す中華皇帝

 

めふぁにっきです。

 

めふぁ家の親父が趣味で古典を教える人間で、中学生くらいの時には父親の漢文の講義を聞いておりました。

基本的に私はずっと寝ていたんですが、たまに起きて聞いていた話の中に、「食客(しょっかく)」という言葉が出てきました。

うろおぼえなんですが、親父の説明によると食客というのは古代中国の習慣で、君主が気まぐれで飼っている一芸採用のヒモとのこと。

 

一芸採用のヒモなので、武術に秀でたヤクザお抱えの刺客みたいなのから鶏のモノマネしからできない一発芸人みたいなのまで結構多様だったみたいです。

とにかく規模のでかい中国だと1人の君主が抱える食客は数千人を超え、変態もとい特殊な人材のプールになっていたとか。

 

中学生の頃にはすでに自分が社会不適合者であることは薄々感じていた私めふぁは、

「よし俺は食客になって生きていくぞ」

とその時決心したのでした。

親父の教育が失敗した瞬間でもあります。

今日もどこかのパトロン様のお声がけを心待ちにしております。

 

一方で、食客を飼っている君主の気持ちになってみると、彼らは完全にガチャを回してる気分だったろうなと思うんです。

今は産業革命以降の世界なので、N(ノーマル)労働者1万人集めて教育すれば工場で働かせて巨額の富が稼げるのが割と当たり前だと思ってる節があります。

 

しかし時は中国戦国春秋時代

工場なんてものはないし、公教育さえありません。当時の教育は私塾だけ。(当時の月謝は干し肉だったらしい)

それでも各地の君主はライバルを蹴落とすために少しでも優秀な人材を求めます。

ただしどういう人材が生き残りに役立つか君主自身もよくわからないので、とりあえず課金しまくってガチャを回しまくりました。

結果、気づいたら脳筋、格闘家、天才、変態といったどこか普通じゃない人間たちが君主の家でタダ飯を食らっていた…というのが食客という習慣の真実なんじゃなかろうかと思ってます。

 

戦国時代が終わって、統一後の隋の時代に、古代中国文明SSR確定ガチャを発明します。世界最古にして倍率3000倍の超難関エリート選抜試験、科挙です。

ただしこの試験は暗記力一辺倒だったんで、古代の食客のような多様性は失われました。

また職にあぶれた天才がいきなり変態覚醒の上暗黒面に堕ちて太平天国の乱とか起こすようにもなりました。

 

今の中国は人口ガチャ(10連確定ガチャ)を回してるので、おそらく世界で1番か2番目に天才が多い国です。英語圏から頭脳移民ガチャ引いてるアメリカといい勝負。

 

パパ活してるおじさま方、女子大生1人囲ってるお金があるなら一芸に秀でた野郎5人くらい飼ってみませんか?

 

きっといつかなにかのお役に立ちますよ。

 

 

 

 

脱・会話のススメ

 

めふぁにっきです。

 

渋谷のネパール料理店で友人2人と飲んできました。

1人はバイト上がりと酒で肝臓疲れ、

もう1人は21時すぎると体質で眠くて仕方がない人間、

私めふぁは飲んだくれ。

もはやそれぞれ思考力や判断力は地におちており、一つの話題を話し続ける力がありません。3人寄れば文殊の知恵とはいうものの、アホは何人集まってもアホなのです。

 

当然会話の成立するはずもなく、ただめいめいに言いたいことを言いたいタイミングでいうだけの会となりました。

 

ぐだぐだ飲みを続けた結果、

その日の結論は

①飲むならば昼間目の醒めているうちがいい

②店のテーブルは可愛い女の子のテーブルの隣がよい

③やはり現代人に足りないものは脱・会話である

というところに至りました。

 

脱・会話とは何かという話ですが、私にもよくわかりません。

会話が「2人以上で言葉を重ねることによって一つの文脈や意味を共有しようとする試み」だとしましょう。

脱・会話はあえて会話のテイをとって言葉を重ねつつも、そこになにかの意味や文脈が生まれるその瞬間に別の誰かがてんで関係ない話を振ってくるか、くだらないダジャレを言ってそこまで積み重ねた意味をぶち壊しにします。そんなことを何度も繰り返すけれど、言葉を交わすことだけはやめないという試みです。

何も特別なことじゃなくて、終電後の飲み屋街か老人ホームではよくやっていることです。

一度仲のいいお友達とやってみてください。

くだらんダジャレを言って場をしらけさせるのがとにかく好きな人が1人いるといいかもしれません。

最初の3分間は何の脈絡もない会話に苛立ちを覚えるかもしれません、大丈夫、すぐに楽になります。そのうち会話に意味をもたせるなんて馬鹿馬鹿しいとさえ思うようになります。

 

ひょっとすると人って生き物はこうやって意味のない声を交わし合っているだけで楽しくなっちゃうもので、あんまり誰が何を言ったかとか関係ないのかもしれません。

 

発情期のオスも相手が可愛いかどうかが重要で

「ええ~すっごぉーい!」「そんけーしちゃう!!!」とか

女の子がほとんど生返事みたいな返事しててもあまり問題ないですからね。

傍から見てると馬鹿にされてるようにしか見えないんですが、

言われた当人は変わらず鼻の下伸ばしっぱなしで「だろぉ~?」とか言ってるからわからんもんです。

 

夜中に作業や勉強をしていて、なんだか人の声が聞きたくなったとき、

私は外国語のラジオ放送をよく聴きます。

日本語の放送だとついつい話の内容に聞き入ってしまいますが、外国語ならそれはありません。それでいて「人の声を聴く」という目的は十分満たせるのです。

 

現代社会は、社会に漂う意味や文脈を見つけては片っ端からぶち壊す社会です。

そのくせ「個々人の感性こそが唯一絶対の価値だよ」ということは共通にしています。

そういうややこしい世界に生きているので、現代人どうしの会話は極めて厄介です。

 

相手を役割意識に押し込めてはいけないし、自分のあたりまえが相手にとってあたりまえだと思い込んでもいけません。暴力や暴言なんてとんでもない。

目の前の人が男性に見えても、異性愛者だと決めつけてはいけません。

もっと言えば男性だと決めつけることもいけません。

ああめんどうくさい。

 

そんなことだから、現代人どうしで会話をしようとするのがそもそもの間違いです。

でも誰かと声は交わしていたい、そんな貴方のために「脱・会話」があります。

 

一緒に太鼓をポコポコ叩くと楽しいとか、マリファナキメると楽しいとか、

なんかそれくらい根源的なレベルでいいと思うんです。

言語で会話するの、やめましょう。

 

▼現代人の会話に疲れた貴方に、原始人になりきって癒やされる遊び

ウガンダナックルズ (うがんだなっくるず)とは【ピクシブ百科事典】

現代人よ、あえて妄想に生きろ

 

めふぁにっきです。

 

自由奔放な家庭に生まれたからか、生来の性格なのかはわからないが、普通の人が持ってる「これをやらなきゃ自分はダメになるんだ」みたいな緊迫感みたいなものがない。

 

なんかいい方法はないかと思って辿り着いた答えが「自分の作った設定の中で自分を演じる」みたいな狂気だった。

 

だから大学4年の後期は「引退後、特にすることがないので近所の市民講座に顔を出している老人」の設定で学校に通っていたし、多分これがなければ大学は卒業できなかった。

 

設定というか、虚構の中で生きるのはとても楽だ。

 

「結局こんなことしたって意味ないじゃん?」という問いを持つ必要がない。ただ自分が自分に与えた役を演じきればそれでいい。自分がやっていることの「本当の」目的なんか二の次だ。

 

高校の半ばごろ、色々あって自分がしていることの意味が全部全部わからなくなったし、「どうせ何やったって一緒じゃん、最後には死ぬんだし」という感情でいっぱいだった。

勉強も特にできなかったし、今にして思えば情緒不安定だったんだろう。

 

そうしていつしか自分の中に、みんなどうして必死に生きるんだろう?という疑問が芽生えて、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を枕元に置き始めた。岩波文庫さんと作者のウェーバーさんには悪いんだが、この本とても実例が豊富で、つまり悪くいうと文字がいっぱいでちゃんと読み切れなかった。

それから橋爪大三郎とか、内田樹の書いてる構造主義のわかりやすい本を読んだ。

 

内容なんて今はうろ覚えだし、あまり確かなことも言えないから内容は書かないけれど、自分の関心事は「どういう動機でみんな生きてるのか知りたい」ということだったから、とても参考にはなった。

みんな何かしらの「物語」を生きていて、その物語の中で、自分が地獄に落ちない側だと信じ込むために労働したり、社会の中で自分は生存に値する側だと周囲にアピールするために勤勉になったりする。

 

「物語」と書くと少し語弊があって、まるでみんな本当は嘘だと知っているタテマエみたいに聞こえるけれど、物語を生きている本人たちは大真面目だし、まぎれもない現実だ。怠惰に過ごせば地獄に落ちるし、村八分にも遭う。

 

戦後の日本の社会の中で、あらゆる物語はぶち壊された。いいことか悪いことかは別として、人間は自由になったし、一方で自由に生きなくちゃいけなくなった。

ご丁寧にもインテリの皆さんがあちこちで「みなさんがされているのはお芝居です。所詮筋書に過ぎないのです。子供の権利は守られなくてはいけないし、一方で婚前交渉は自由だし、婚姻は家庭ではなく個人の決定によってなされるべきなのです。」とふれて回ったので、次第に日本人は自由になったし、同時に生きるべき物語もなくなった。

 

「さぁみなさんご自身の思い描く物語を生きてごらんなさい」

「結婚しないで生きて生きたいです。」

「ご自由に」

「死ぬまでナンパだけしていたい」

「ご自由に」

「しにたい」

「ご自由に」

 

一部の狂人を除いて、自分で完全にオリジナルの物語を作ってその中で生きるのはものすごく難しい。オープンワールドゲームだと分かりやすいけれど、ほとんどの人にとって、ストーリーやストーリーを感じられる演出もなしにゲームを続けるのはなかなか厳しいものがある。

 

そのためにMODを使って新しい武器や、新しい世界観のテクスチャや、新しいシナリオをダウンロードして世界を楽しむのだ。

 

自分の意思と一定のアルゴリズムだけで動くと分かりきってる世界のど真ん中で、「特に意味とかないけど今日はお城を作ります!」とか毎日やって生活するには才能が要る。上手い下手じゃなくて、自分がしていることに自分の中で意味をつける才能だ。

子供の頃はみんな持ってる。バケツに砂を山盛に盛って、ハナタレの男児の前に置いて「おとうさん、ごはんよ❤︎」とかやってるのがそれだ。どう見たって砂の山とハナタレ小僧という現実に、女児はうまいこと意味をつけてくる。

 

特に何の物語も残されていない世界で、誰かと過ごすことさえ、代替可能な無数の個人の中から1人を選んで生活する無味乾燥な行為になりうる。

「自分以外の他人は、自分と同じ人間じゃなくてNPCかもしれない(哲学的ゾンビ)」という観点に立てば、所詮NPCと同棲してるだけという見方もできる。

たとえNPCでもNPCにチヤホヤされるのは楽しいから、胸元とかふとももの画像をネットに上げてみる。これが不特定多数からの承認欲求だ。

正直誰からの称賛でもいい。みんながいいねを押してくれれば称賛はすなわち数になる。

数こそはすなわち 己のパワーだ。

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そうこうしているとある日NPCが痴情のもつれから玄関先に文化包丁持ってやってくる。おおこわい。

100年かけて現代人はあらゆる物語をぶっ壊したけれど、どうやって物語を再構築するかは誰も知らない。

宗教やブラック企業は物語を再構築してくれるから、もしかすると現代人を救ってくれるのはブラック企業なのかもしれない。

 

情報が氾濫する世界で、これから重要になる人物は「正しい情報を教えてくれる」人でも「たくさん情報を持っている」人でもない。

その中で生きようと思えるような物語を提示できる人間だ。

 

現代人よ、あえて妄想に生きろ。

 

 

 

 

わたしここに居たくない、おうち帰ってニコニコする!

 

めふぁにっきです。

 

前回の記事

『血となり肉となれサムギョプサル』

https://mayfarz.hatenablog.com/entry/2018/11/30/022835

の続き

 

人間が直面している現実は多層的で、社会、集団、2者間、個々人の身体的現実…等々、関係性や文脈に応じたレイヤーに分解できる。

そんな複数のレイヤーが1つに重なってはじめて「誰かにとっての現実」ができあがっている。

 

社会とか、言語で共有できるレベルのレイヤーにばかり目がいくけれど、案外無視されている身体性こそ重要なんじゃない??

 

みたいな話を前回書いたけれど、

 

00年代後半以降、1日のコミュニケーションに占めるパーソナル的なもの(携帯端末を経由した情報の送受信)の比率が高まってきた。

で、ここからが自分の感覚で、「自分の現実」を構成するレイヤーのうち、「身体的な現実」の比重が高くなってきたんじゃないか…?

というのが今回の話。

 

まだスマートフォンというものが普及しきっていなかった頃は、ネットはかなりの比率で自室やリビングにあるPCからアクセスするものだったし、そういう意味で「場所性」は固定されていた。

だから当時の2chなどの語り手の背景も、「どこかにいってきて、それを家やネカフェのPCから綴っている」という描き方になったし、「帰宅して、PC立ち上げて、ニコニコ動画を開いて」という共通の「場所」の文脈がある程度成立していた。

(いわゆるガラケーからアクセスするネットというのはPCからアクセスするのとは景色が違っていた。)

 

「親フラ〜 落ちますノシ〜」

「ノシ〜」

「私もほかってきます」

「ほかてら〜」

 

ここからはかなりこじつけだけれど、アクセス端末がどんどんパーソナルになるにつれて、ネットコンテンツもパーソナル寄りになっていったし、送信をする上での「場所性」の縛りも外れた。

 

場所の縛りがある、というのがどういうことかというと、携帯電話と固定電話の普及について考えるとわかりやすい。

固定電話がまだまだ主流で、携帯電話が普及し始めたばかりの頃の小噺。

 

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▲21世紀初頭の日本での趣味嗜好に対する弾圧の例(写真:トウキョウ イケブクロでケムリを愛好するマイノリティを金網に押し込めるために設定されたエリア)

 

駅のホームでの携帯ごしのサラリーマンの会話

「ああ、うん、そう、今ね、吉祥寺」

「そうそう、今から帰るから」

「それにしても、キミはよくオレがここにいるってわかったね笑」

 

みんなが固定電話を使っている社会では、電話を(自分から)かけている人は、電話の相手がどこにいるかを知っているのが前提なのだ。

今風にいうと、固定電話の時代は、電話番号のアカウントが個人ではなく、場所に紐付いていた。

この小噺のミソは、相手はサラリーマン本人の携帯電話にかけたので、自分がどこにいるかは関係ないのに、ついつい固定電話時代の感覚で「俺がここにいるってよくわかったね」と発言してしまったところにある。

 

絵を描く人、音楽を作る人はいまだに(家にスタジオや機材を整備する必要があるので)場所のくくりがあるけれど、ほとんどの人にとってTwitter、LINE、Instagramなどのコミュニケーションや日常の読み物や動画視聴はツールとして場所を問わないものになった。

 

変な話だけれど、ツールの場所性やシチュエーションがユビキタス(いつでも、どこでも)に近づくほど、それを使って情報を送受信する時に文脈を強く意識せざるを得ないんじゃないかと思う。

 

Twitterの青い鳥は「いま、なにしてる?」とか気安く聞いてくるけど、今なにしてる?って一番難しいのだ!

 

俺は!夜中に部屋の椅子に座って寒い部屋と冬場特有の乾燥と肩凝りに悩みながらブログ書いてるよ!

 

場所と時間に関係なくネットしてるから、意識に上ってくる情報が「腰が痛い」「ねむい」「ケツが冷たいぞ」ばかりになってくる…。