めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

本日は晴天なり 20180518

本日は晴天なり

 

とはいったもののこれといって書くこともない。

 

高校生の頃にはあれだけ日常のこととか書けたのになあと考えてみると

会社勤めを始めてから実は大学生の時より圧倒的に分量だけなら文章を書いている。

それなのにどうして日記を書こうとなると書けないのだろう。

 

よくもわるくも社会人向けの文章を書くようになっているし、

垢バレとかめんどうだから特定されるようなことは書けない。

ちょっと理屈をこねくり回すだけならTwitterで書いた方が向いているし

自分の中で、ブログとか日記の形式で綴ることの必要性がなんだか枯渇している。

そんな気がする。

 

別にほっといたら世の中そんなにおもしろいもんでもないし

無理やりにでもおもしろくするには

「おもしろがる才能」と

「おもしろいものを見つける才能」と

「それを続ける才能」が必要になる。

自分にとってのおもしろいコトってなんだろう?と考えると

人と話したり、モノを書いていく中で、

自分の中で悶々と考えているだけじゃ絶対に出てこないアイデアが出てくる時が

気持ちいい…かな?

 

自分が気持ちのいいことというのは無意識にやっているだけに、

案外自分で意識していない。

でもそれを意識して生きないとどんどん自分の気持ちのいい生き方からは外れてくる。

20歳になったらテッテレーとかファンファーレがなって自動的に「大人ビジョン」がオンになるとか思ってたし、真面目に生きてりゃ落ち着いてきて、なんかオマケで飲みに行ったり、ちょっといい家具が家に来たり、素敵な恋人ができるものだと思ってた。

だけど全然違った。

放っておけば家は散らかっていくし、ちょっといい家具はちょっと貯金してお昼ご飯を少し我慢しなきゃ食べられないし、ちょっと贅沢しておいしいものばかり食べていたらちょっとずつ贅肉に変換されていく。恋人?何の話だろう。

エントロピーは増大する。だから放っておくと部屋は散らかっていくし、何もしなけりゃ物は古くなって、酸化して、悪くなっていく。

だからそこに常に抗って人間は生きなくちゃいけないし、散大してどんどんなくなろうとするものを抱え込むこと、それが生きることの1つの側面だとようやっと気づいた。

 

いい方の側面としては、自分の生き方は自分で決められるし、自分自身はある程度デザインできる。もちろん生まれた時から決められている「自分が何をするとうれしくて、何をすると悲しいのか」だけはなかなか変えられないけど、ちょっとずつなら変えられる。それを自分で描いていくことが一つの楽しみでもある。

エントロピーが増大する世界(=放っておくと散らかって、ダメになる世界)で、何を喜びととらえ、何を悲しみととらえるかは人それぞれだ。

 

髪型を変えるのが好きな人は髪が伸びるからこそ美容室へいけるし、髪を切ってお金がかかるのがめんどうな俺は、月一で散髪に行くたびにいっそ坊主頭にしてやろうかと毎回思う。(実際煩わしくて高校時代は野球部でもないのに坊主だった)

 

あくまで自分が感じるかの問題ではあるけれど、

人間は「毎日手間がかかって」「ちょっとずつ(いい方向に)変化していくもの」が幸福度を上げるのに向いているらしい。植物やヒゲの手入れとかが好きな人が考えた言葉だろう。

 

ここまでダラダラ書いたけどオチがつけられない。

多分Twitterの悪いところは話にオチを付ける習慣がなくなってしまうところだ。

誰も見てないだろうなと思ってダラダラ書く文章も嫌いじゃないなってことには気付けた。誰か読んでくれてたらありがとう。