めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

高度10000mのザゼン=サムライ

 


めふぁにっきです。

季節の変わり目だからですかね。
気がつくとやたらに気が張り詰めてしまいます。

あー気ィ張ってるわァ〜キッツゥ…と感じた時は椅子にだらんと腰掛けてとにかく何もしない時間を取ることにしてます。

椅子に座ってさえいればスライムになることだけは避けられるので、椅子に座って何も考えず、ただただ自分がそこにいる感覚を味わいます。
ああ、そういえばこのクタクタの身体を引きずって1日仕事をしてたんだよなと実感する瞬間です。

禅坊主の説法じみたことを書きますが、
人間それなりに長く生きてると、あまり現実をそのまま捉えることはしないらしく、過去の経験とか、未来の心配とか、とにかくその場に存在しない何かのことばかり考えるようになります。

現実だと思ってるものは、実は過去の経験から想起される推測とか妄想の集まりかもしれません。
たとえば人間は生きていていちいちものを触ったり舐めたりして確かめたりせず、たえず推測によって感覚を補っています。
「質感」とかがいい例で、人間の身体で十数年も生きてると、別に触らなくてもクッションぽい見た目のものはふわふわした肌触りをしてるし、金属光沢があればひんやりして固いだろうという推測を勝手に脳が立てるようになるわけです。

そりゃ脳みそだって暇じゃないから、できるなら推測をフル活用して惰性で運転してたいわけです。
そういう惰性で運転する機能を脳のオートパイロットといいます。

目の前にラーメンが出てきて、「これって本当に食べ物かなぁ?」とか考えて、口にしてみてこれは食べ物だと確信してから唾液と胃液を出してるなんて回りくどいことをしてたら生き物としては正直どうかしてます。食い物があれば飛びつき、メスがいれば飛びつき、ライオンがいれば飛んで逃げるのが真っ当な生き物としての態度なんです。

こういう生き物としての本能や経験で動いてるオートパイロットに直接情報をぶち込んで働きかけるのがたとえばデザインとか、芸術でいえば演出みたいなものにあたります。

さらに人間は直接体験をしていなくても、臨場感を伴って間接的に他人のイメージを体験できる機能を獲得しました。言語です。

言語とかデザインとか、そういう刺激の強いものに囲まれて生活していると、時々自分の身体が現実世界にあることを忘れます。
生き物として生活する限り、物理世界の自分の身体をおそろかにはできないはずなんですが、人間は頭でっかちなので、そういう本末転倒なことが起こります。

私は20代になってからやっと身体を動かすようになったのですが、自分の身体が思うように動かず驚愕したり、鏡を見て自分の不恰好さに戦慄したりします。
おそらくペッパーくんが自我を持ち始めたら、自分の身体が思うように動かないことと自分の容姿と他人の容姿とのギャップに驚愕するんじゃないかと思います。正直私には確信があります。

(機内モード中に暇で仕方なくて書いたメモ)