めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

末代の生き様

 

めふぁにっきです。

 

渋谷でダチ氏とお茶していたら、

「たまには日本語を読みたいと思って貴様のブログを読んでいるのに、最近の貴様はたるんでおるぞ。」と喝を入れられました。すみましぇん。

 

お茶したときの話をまとめます。

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▲うまうまネパール水餃子

 

今ほど俺らの世代は〇〇だよね。という一言で表現できない時代もないと思うんです。

「今ほど」というのは90年生以降、世間的にはゆとりと呼ばれる世代以降の話ですが。

そもそも隣にいる同世代のヤツがどういう音楽を聴いて、どういうメディアを観て、休日はどう過ごしているかがわからないのが当たり前で、せいぜい服装でなんとなく「人種」はわかるけど…それ以上わからない。それに慣れっこです。

 

だから突然「俺らは音楽でいうとアムラーの世代なんだけど、君らはどういう世代だい?」と聞かれても、「んとー、俺はこういう人間なんだけど、でも友達は別のものを聴いてるし、でも世の中にはバンギャってのもいて…」みたいな答え方にしかなりません。

 

メインカルチャーとかサブカルチャーって区分は、メインのカルチャーが大きなアリーナでめっちゃ人だかりができている反対側のサブアリーナで細々と固定客相手に商売してる…みたいなイメージがあるんです。

でも、少なくとも私から見た「同世代」というのはカラオケの個室みたいなもので、なんとなく曇りガラス越しに女子が多いなとか、合コンだろうな、サラリーマンだろうなというのはうっすらわかるし、中から聞こえてくる歌でどういう人達か漠然とわからないではないけど、それ以上には何もわからない。そんな感じがするんです。

 

個人的な感覚でいうと、初対面の人の趣味は特に相手が話題にしてこない限りは実家の葬式仏教の種類並に触れない話題です。

 

そういえばお互いに趣味をオープンにして会話するシーンってどういう場合だっけ?みたいな話題になったんですが、考えつくのは「合コン」とか「付き合って最初に彼氏の家に行った時」みたいなシーンくらいで、よほどオープンにする理由がない限りオープンにしないなぁ…と思ったんですが、どうなんですかね。

 

現代の恋愛や結婚は家同士ではなく、個人同士で行われるので、「どっちの宗派で葬式する?」とかいう話よりもお互いの趣味をどう認めるかみたいな話がより重要になってくると思うんです。一個人の趣味とはいえ、個人主義の現代ではもはや宗教みたいなもんです。

 

信仰を捨てるか、パートナーを取るか

趣味を捨てるか、パートナーを取るか

 

嫁さんが追っかけやってるのを認めるかとか、旦那が部屋にフィギュア集めてるのを認めるかとか、ここんところがうまくいかないと、ある日どちらかが「子供じゃないんだから!」とか言って趣味のもの全部無断で捨てちゃったら離婚どころか傷害事件になってもおかしくないです。

 

オタク同士のカップルがある程度趣味を尊重しあえるのは、なんというか多神教的というか「私はガネーシャ推し。あなたはシヴァ推し。違う神様拝んでてもお互いの神様は尊重するの。」的な感覚に近いんじゃないかと半分思ってます。

 

自分を自分で肯定できるために、自分が自分でいられるために何を軸に考えているかによるんですが、「家庭を築いている自分」が軸の人は恋愛をする段階から案外あっさり捨ててしまえて、 「趣味を生きている自分」が軸の人は「なんでたかだか人間のために生きる意味を捨てないといかんのだ??そりゃオマエを捨てるに決まってるだろ」という反応になると思うんです。

志賀直哉の小説「清兵衛と瓢箪」の中で、幼い清兵衛という少年は、瓢箪(ヒョウタン)に異常な執着を見せ、しかも非常に高価な瓢箪を選び出す才覚まで備わっているのですが、まったく理解のない父親は清兵衛を叱りつけ、彼の持っている瓢箪を片っ端から叩き割って、彼の趣味を無理矢理やめさせてしまいます。

 

恋愛をすることが軸になっている人は、相手に付き従い尽くすことを心に決めてしまえば、瓢箪くらい簡単に叩き割りますし格好も簡単に変えます。時にそういう人は「パートナーが年甲斐もなく瓢箪なんかに異常な固執をしている」と相手の瓢箪を叩き割りもします。

個人のたわいもない個性は叩き潰してでもパートナーを作らせる方が社会の維持には便利なんでしょうが、現代社会にもはや普遍となる規範は存在せず、個々人は自分の価値を後生大事に抱えています。

 

もうすでにそういう時代になっているのかもしれませんが、あと一世代経ると、恋愛や結婚に異常な執着をする文化が主流になるのかもしれません。自分の瓢箪を守り抜く側の人間がこのまま末代になるとしたら、自然淘汰的に次の世代に生き残るのは「どれだけ魅力的な娯楽が世に溢れていても恋愛と結婚に執着する」個体の子孫の確率が高いです。

娯楽が時代を追うごとにますます魅力的になっていき、それでも変わらず繁殖に勤しむ個体が生き残ります。

 

 

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▲うまうま小籠包

 

メンヘラやビッチちゃんと話していると、たまに異常なくらい結婚に執着している子を見かけます。どうして今まで種が保存されていたのか不思議なくらい歪な精神構造の持ち主であればあるほど、ああ、なるほど、この執念が今まで代々命を繋いできたんだね、頑張っているねと妙に感心してしまいます。

きっとこの子はどこかで遊び尽くしてきちんと相手をとっ捕まえて、「あがり」になって、子孫を残していくんだろうなあと考えて、なぜか脳裏に綿毛を飛ばしまくるタンポポが浮かんできます。

 

ひょっとするとこの少子高齢化社会は末代にとっては最後の栄華になるかもしれないのです。人口と文明レベルを維持できずに滅ぶか、繁殖力の高い個体で社会が溢れるか、どちらにせよ末代に先はありません。

なくてもいいのです。だって末代だから。