めふぁにっき

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めふぁにっきです。

 

前回の記事

『血となり肉となれサムギョプサル』

https://mayfarz.hatenablog.com/entry/2018/11/30/022835

の続き

 

人間が直面している現実は多層的で、社会、集団、2者間、個々人の身体的現実…等々、関係性や文脈に応じたレイヤーに分解できる。

そんな複数のレイヤーが1つに重なってはじめて「誰かにとっての現実」ができあがっている。

 

社会とか、言語で共有できるレベルのレイヤーにばかり目がいくけれど、案外無視されている身体性こそ重要なんじゃない??

 

みたいな話を前回書いたけれど、

 

00年代後半以降、1日のコミュニケーションに占めるパーソナル的なもの(携帯端末を経由した情報の送受信)の比率が高まってきた。

で、ここからが自分の感覚で、「自分の現実」を構成するレイヤーのうち、「身体的な現実」の比重が高くなってきたんじゃないか…?

というのが今回の話。

 

まだスマートフォンというものが普及しきっていなかった頃は、ネットはかなりの比率で自室やリビングにあるPCからアクセスするものだったし、そういう意味で「場所性」は固定されていた。

だから当時の2chなどの語り手の背景も、「どこかにいってきて、それを家やネカフェのPCから綴っている」という描き方になったし、「帰宅して、PC立ち上げて、ニコニコ動画を開いて」という共通の「場所」の文脈がある程度成立していた。

(いわゆるガラケーからアクセスするネットというのはPCからアクセスするのとは景色が違っていた。)

 

「親フラ〜 落ちますノシ〜」

「ノシ〜」

「私もほかってきます」

「ほかてら〜」

 

ここからはかなりこじつけだけれど、アクセス端末がどんどんパーソナルになるにつれて、ネットコンテンツもパーソナル寄りになっていったし、送信をする上での「場所性」の縛りも外れた。

 

場所の縛りがある、というのがどういうことかというと、携帯電話と固定電話の普及について考えるとわかりやすい。

固定電話がまだまだ主流で、携帯電話が普及し始めたばかりの頃の小噺。

 

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▲21世紀初頭の日本での趣味嗜好に対する弾圧の例(写真:トウキョウ イケブクロでケムリを愛好するマイノリティを金網に押し込めるために設定されたエリア)

 

駅のホームでの携帯ごしのサラリーマンの会話

「ああ、うん、そう、今ね、吉祥寺」

「そうそう、今から帰るから」

「それにしても、キミはよくオレがここにいるってわかったね笑」

 

みんなが固定電話を使っている社会では、電話を(自分から)かけている人は、電話の相手がどこにいるかを知っているのが前提なのだ。

今風にいうと、固定電話の時代は、電話番号のアカウントが個人ではなく、場所に紐付いていた。

この小噺のミソは、相手はサラリーマン本人の携帯電話にかけたので、自分がどこにいるかは関係ないのに、ついつい固定電話時代の感覚で「俺がここにいるってよくわかったね」と発言してしまったところにある。

 

絵を描く人、音楽を作る人はいまだに(家にスタジオや機材を整備する必要があるので)場所のくくりがあるけれど、ほとんどの人にとってTwitter、LINE、Instagramなどのコミュニケーションや日常の読み物や動画視聴はツールとして場所を問わないものになった。

 

変な話だけれど、ツールの場所性やシチュエーションがユビキタス(いつでも、どこでも)に近づくほど、それを使って情報を送受信する時に文脈を強く意識せざるを得ないんじゃないかと思う。

 

Twitterの青い鳥は「いま、なにしてる?」とか気安く聞いてくるけど、今なにしてる?って一番難しいのだ!

 

俺は!夜中に部屋の椅子に座って寒い部屋と冬場特有の乾燥と肩凝りに悩みながらブログ書いてるよ!

 

場所と時間に関係なくネットしてるから、意識に上ってくる情報が「腰が痛い」「ねむい」「ケツが冷たいぞ」ばかりになってくる…。