現代人よ、あえて妄想に生きろ
めふぁにっきです。
自由奔放な家庭に生まれたからか、生来の性格なのかはわからないが、普通の人が持ってる「これをやらなきゃ自分はダメになるんだ」みたいな緊迫感みたいなものがない。
なんかいい方法はないかと思って辿り着いた答えが「自分の作った設定の中で自分を演じる」みたいな狂気だった。
だから大学4年の後期は「引退後、特にすることがないので近所の市民講座に顔を出している老人」の設定で学校に通っていたし、多分これがなければ大学は卒業できなかった。
設定というか、虚構の中で生きるのはとても楽だ。
「結局こんなことしたって意味ないじゃん?」という問いを持つ必要がない。ただ自分が自分に与えた役を演じきればそれでいい。自分がやっていることの「本当の」目的なんか二の次だ。
高校の半ばごろ、色々あって自分がしていることの意味が全部全部わからなくなったし、「どうせ何やったって一緒じゃん、最後には死ぬんだし」という感情でいっぱいだった。
勉強も特にできなかったし、今にして思えば情緒不安定だったんだろう。
そうしていつしか自分の中に、みんなどうして必死に生きるんだろう?という疑問が芽生えて、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を枕元に置き始めた。岩波文庫さんと作者のウェーバーさんには悪いんだが、この本とても実例が豊富で、つまり悪くいうと文字がいっぱいでちゃんと読み切れなかった。
それから橋爪大三郎とか、内田樹の書いてる構造主義のわかりやすい本を読んだ。
内容なんて今はうろ覚えだし、あまり確かなことも言えないから内容は書かないけれど、自分の関心事は「どういう動機でみんな生きてるのか知りたい」ということだったから、とても参考にはなった。
みんな何かしらの「物語」を生きていて、その物語の中で、自分が地獄に落ちない側だと信じ込むために労働したり、社会の中で自分は生存に値する側だと周囲にアピールするために勤勉になったりする。
「物語」と書くと少し語弊があって、まるでみんな本当は嘘だと知っているタテマエみたいに聞こえるけれど、物語を生きている本人たちは大真面目だし、まぎれもない現実だ。怠惰に過ごせば地獄に落ちるし、村八分にも遭う。
戦後の日本の社会の中で、あらゆる物語はぶち壊された。いいことか悪いことかは別として、人間は自由になったし、一方で自由に生きなくちゃいけなくなった。
ご丁寧にもインテリの皆さんがあちこちで「みなさんがされているのはお芝居です。所詮筋書に過ぎないのです。子供の権利は守られなくてはいけないし、一方で婚前交渉は自由だし、婚姻は家庭ではなく個人の決定によってなされるべきなのです。」とふれて回ったので、次第に日本人は自由になったし、同時に生きるべき物語もなくなった。
「さぁみなさんご自身の思い描く物語を生きてごらんなさい」
「結婚しないで生きて生きたいです。」
「ご自由に」
「死ぬまでナンパだけしていたい」
「ご自由に」
「しにたい」
「ご自由に」
一部の狂人を除いて、自分で完全にオリジナルの物語を作ってその中で生きるのはものすごく難しい。オープンワールドゲームだと分かりやすいけれど、ほとんどの人にとって、ストーリーやストーリーを感じられる演出もなしにゲームを続けるのはなかなか厳しいものがある。
そのためにMODを使って新しい武器や、新しい世界観のテクスチャや、新しいシナリオをダウンロードして世界を楽しむのだ。
自分の意思と一定のアルゴリズムだけで動くと分かりきってる世界のど真ん中で、「特に意味とかないけど今日はお城を作ります!」とか毎日やって生活するには才能が要る。上手い下手じゃなくて、自分がしていることに自分の中で意味をつける才能だ。
子供の頃はみんな持ってる。バケツに砂を山盛に盛って、ハナタレの男児の前に置いて「おとうさん、ごはんよ❤︎」とかやってるのがそれだ。どう見たって砂の山とハナタレ小僧という現実に、女児はうまいこと意味をつけてくる。
特に何の物語も残されていない世界で、誰かと過ごすことさえ、代替可能な無数の個人の中から1人を選んで生活する無味乾燥な行為になりうる。
「自分以外の他人は、自分と同じ人間じゃなくてNPCかもしれない(哲学的ゾンビ)」という観点に立てば、所詮NPCと同棲してるだけという見方もできる。
たとえNPCでもNPCにチヤホヤされるのは楽しいから、胸元とかふとももの画像をネットに上げてみる。これが不特定多数からの承認欲求だ。
正直誰からの称賛でもいい。みんながいいねを押してくれれば称賛はすなわち数になる。
数こそはすなわち 己のパワーだ。
そうこうしているとある日NPCが痴情のもつれから玄関先に文化包丁持ってやってくる。おおこわい。
100年かけて現代人はあらゆる物語をぶっ壊したけれど、どうやって物語を再構築するかは誰も知らない。
宗教やブラック企業は物語を再構築してくれるから、もしかすると現代人を救ってくれるのはブラック企業なのかもしれない。
情報が氾濫する世界で、これから重要になる人物は「正しい情報を教えてくれる」人でも「たくさん情報を持っている」人でもない。
その中で生きようと思えるような物語を提示できる人間だ。
現代人よ、あえて妄想に生きろ。