めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

スタミナゲージがミジンコ並

 

めふぁにっきです。

 

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▲湘南のコンビニに行ったらえげつない名前のサーフボードワックスが売られてて三度見した。

 

このブログも半年くらい書いてきてもう80記事くらいです。

時々読み返すと飯の話と自分がモテない話しか書いてません。

そもそもブログって何を書くところなのかいまだにわからない。

なんか時事ネタとか書けばいいのかな。

以前なんとなくアダルトVRの体験記事とか書いたら妙にアクセスが伸びてビビりました。

 

今年はもっとこう、書いてて自分が好きになれるようなことを書きたいです。

 

昔からなんか書きたい、なんか書きたいなあと常日頃思ってはいるものの、結局何も書きません。書くのはブログだけ。創作の小説ってやつが書けない。

だから大学に入ってしばらくして、書物してる諸君はどうやって文章書いてんだ!書き方教えてよ!と文芸部に入ったはいいが、一向に書けるようにならない。

今考えると当時の自分は「スポーツ初心者が運動部に入ったら、スポーツのやり方を教えてくれる。当然文芸部もモノの書き方を教えてくれるところに違いない!」と勘違いしていた。

 

文芸部はモノの書き方を教えてくれるところじゃない。モノを書くのが好きな人が集まっているところだ。

しかたがないので、どうやったら書けるだろうと部員を観察することにしたが、「書ける部員は書いている部員である」という至極当たり前のことと、なんだかんだ締切がモチベーションに一定の効果を上げていることがわかった。

そうは言っても、プロットを書くとかいってワードを開いたまま腕組みをして固まっている部員もちらほらいたので、モチベーションと設備と時間があればできるわけでもないらしい。

 

ほらやっぱり頭の中に創作を生み出す過程があるんじゃん!頭の中を見せてよ!と部室に居座って原稿を書いている部員の邪魔をしてみた。

そこばかりはどれだけ言語化してもらおうとしてもどうにも要領を得なかった。

 

人間は自分が言語化できる以上にものを知っている生き物だ。

だから、誰かがある技術について「知っている」「できる」からといって、それを人に説明できるとは限らない。

売れるモノが書けるとか、水準の問題じゃなくてとにかく誰かの頭の中で新しい人物や設定が完全に新たに作られること自体が自分には不思議で仕方がなかったし、それができること自体が尊敬の対象だった。

二次創作とか、既存の文脈を借用して、そこから別のストーリーの分流を作り出すのはまだ理解できるけれど、「創作」ということがまったく感覚として理解できなかった。

 

(何かが「できる」という意味での)才能というのは、メソッドの問題じゃなくてそもそも認知レベルで違う場合が多い。数学でペンと紙を使って他人にイメージを伝えるグラフとか図示みたいに、道具の助けを借りて認知が共有できればいいのだけれど、頭の中で新たな何かが生まれてくる過程というのはいまだに言語化しづらいだろうし、今まであまり問題にした人はいない。

ほとんどの書けない人はそもそも書くという発想さえないわけだし、できる人からすれば「紙とペン、ワープロ、なんでもいいけど書けるものと書く場所があれば書けるよ」くらいの感覚だから会話にならない。

それくらい隔絶があると、「書きたいけど書けない人」という救われない人間はどこかで「あ、俺そもそも書く気がないんだ、きっとそうなんだ」とイソップ童話の酸っぱい葡萄を諦めるキツネみたいに、諦めるしかないのかもしれない。

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▲深夜 飯テロ いちご パフェ