めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

サロン化する世界

 

めふぁにっきです。

 

その昔、西洋貴族が自らの邸宅に音楽家やら学者さんやら、当代きってのイケてる人たちを呼んで、知的な会話や音楽を楽しんでいた。そういう空間を彼らはサロンと呼び、転じて文化人どうしの交流の場や展覧会のことをサロンと呼ぶようになったとか。

 

ここまでほとんど、うぃきぺでぃあに書いてあった話。

 

劇場の発展史やマスメディア以降の芸術のあり方みたいな大げさな話をするつもりはない。でも少なからず「同世代」感覚を抱いてその時代共通の娯楽を享受していた15年以上前と比較すると、現代の娯楽の空間や時間はどんどん細かく、個別になっていって「サロン化」しているんじゃないかという感覚がある。

むしろ人類史の中で娯楽が息づく空間のほとんどはサロンで、マスメディアを介して「テレビ」「ラジオ」「カーステレオ」「スキー場のBGM」のような形で1つの時代の文脈を共有していたここ100年くらいが特殊なだけだ、という見方もあるかもしれない。

かつてテレビが家庭に1台くらいしかなかった頃は「家庭のチャンネルの選択権」なんて言葉があった。家庭で同じ時間に見られる番組はたった1つ。だから家庭の中で誰が優先的にリモコンを操作する権利があるかという話題も昔はあったわけだけれど、そんな言葉がだんだん死語になって、現代ではおじいちゃんも中学生も女子高生も、みんな自分の好きな「チャンネル」を見るようになった。

 

人はチャンネルを取り合うが、チャンネルだって人(視聴者)を取り合う。

 

公共の電波に5~10くらいしかチャンネルがなかった時代なら、視聴者を取り合うのはチャンネル同士の競争でよかった。2000年代のネットの代名詞「2ちゃんねる」だって、「東京では番組の映らないチャンネル」という意味だし、その点では当時のチャンネルの1つでもある。 掲示板やチャットルームといった本来サロンの権化のような文化が、膨大な利用者を取り込んで1つのメディアと認識されるに至った。ネットはチャンネルの一つとして台東市 台頭し、他のチャンネルからユーザーを飲み込んでいった。

同じ文脈を共有していたテレビ世代の名残からか、2000年代は「同時代の文脈」が確かにあった。多分。

 

自作ホームページやブログブームの時代もあったはずなのに、SNSの時代に至ってメディアと、メディアを通じた「同時代の文脈」の分岐は決定的になった。

もしかしたら、本当に決定的な瞬間はなかったのかもしれない。

自分は2010年前後の「ニコニコ動画」や「ニコニコ生放送」の文脈をある程度同世代と共有していたような気がしていたけれど、ひび割れていく氷山のように、徐々に徐々にこのコンテンツ、別のコンテンツと共有する文脈が同じ世代と分岐していったのかもしれない。

YouTubeは人によって別々のレコメンドを出すし、ニュースサイトにしたってそうだ。Twitterもフォローしている人と人がかたまりになって「界隈」をなしている。

ある界隈から飛び出して別の界隈へ行くとそこではまったく知らない世界が広がっている。

 

あくまでも直感だけれど、「誰かと同じ文脈を共有できる媒体」という意味のメディアとしてこれから強くなっていくのは全世界に同じものを共有できる動画サイトやSNSではないと思う。

本当にメディアとしてこれから5年ほどで強くなっていくのは、VRチャットサロンや街場のクラブ、飲み屋、シェアハウスのような「空間的、時間的に区切られた」サロン的空間だと思う。

今までメディアだと思われていた動画サイトやSNS空間はあくまでもサロンでの会話の「タネ」を提供するにすぎない。SNS上の界隈から界隈へと情報や話題は伝わっていくけれど、伝わる界隈によって受け止める文脈はまったく異なる。

元の文脈は再解釈され、切り刻まれ、伝わるはずだった情報さえも元の形を保ったまま別の界隈へと届くかは怪しい。

もはやSNSは情報を媒介するものではあっても、「文脈」を媒介するものではない。

 

マスメディア出現以前にそうであったように、人にとって最大のメディアは再び「場」になり、世界の娯楽はサロン化し、多様化していくのではなかろうか。

 

なんのこっちゃ。(おしまい)

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▲共有される文脈:散々食って痩せられない男