めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

追い詰められてもブロックできない

 

めふぁにっきです。

 

小学校から高校まではいじめがよくあるのに、大学に入るとすこし減り、会社に入るとまた起こるようになる…。これは精神的に未発達な子供に特有の問題などではなく、高校や会社といった組織が持つクラスや職場といった閉鎖的な空間の設計がいじめを生んでいるのだ。

以上のような説明をTwitterで見かけたことがある。

 

ソースはともかく(忘れた)私はこの言説には大部分で賛成である。断っておくが、大学や、そのほかの閉鎖的なクラスを持たない組織でまったくいじめが起きないわけではない。もちろんいじめには加害者の特性や、背景となる社会の文化や状況が必ず存在しているだろう。

そのことは踏まえた上で、どうして閉鎖的な空間設計の中にある組織では、いじめのような実に閉鎖的な人間関係のトラブルが起きやすいのだろうか。そこを考えていきたい。

 

空間の設計はその中で活動する人間どうしのコミュニケーションのあり方を決めてしまう。だから大前提として、物理的な距離が閉鎖的なら、人間関係も閉鎖的になる。

心理的な関係性は物理的な距離に左右されるし、そのまた逆もありうるのだ。

だからこそ人間は常に他者との心理的な距離感を無意識に計り、同時に物理的な距離感を適正な位置に調整している。このことにフォーカスすると、人間には「関係性に応じた適切な物理的距離がある」ということがいえる。

要するに「親しい人間とは近しく接し、そうでない人間には遠巻きに接する」というごくごく当たり前の話だ。

 

ただ、この距離は文化や個人によって差が激しい。

インド人は前の人にピッタリくっついて列に並ぶが、北欧では数m離れて並ぶとか、文化によって人の並び方の間隔の違いが出るというのはここに起因する。

同じ日本人でもなんとなく「コイツ距離感近いな…」という人は時々いるだろうし、その逆(遠い)もあるかもしれない。

 

本当の意味で自由な空間があれば、お互いの関係性や心理的距離感に応じていくらでも調整ができる。妙に距離が近いやつがいればどこまでも逃げていける。

「ミュート」や「ブロック」に相当することを自由な空間ではいくらでもできるのだ。声が聞きたくなければ相手の声がミュートできるくらい遠くまで行ってしまえばいい。

 

ところが、学校や職場といった空間はそうはいかない。

席は一定間隔で並べられ、時に隣の人間は選べない。他人と好きに距離を置けたとしても最大20分の休み時間の間だけである。

また、どちらも日本ではある種の同質化を求められる組織であるがゆえに、常になんらかのモードを演じ続けるというストレスがかかっている。加害者であれ、被害者であれ、一日8時間も同じ人間と同じ距離感で役を演じてその場に居続けなければならないというストレスは同じなのである。

 昆虫を高密度で虫かごに詰めると(田舎育ちは経験があるかもしれないが)時々共食いをする。昆虫と人間の生態をあまり区別していない自分としては、昆虫に起きることで、人間でも似たようなことが起こるというのは直感的にそんなに変だとは思わない。

個人的には7年くらい土の中に引きこもりたい。

 

都市生活ができるくらいに群れることへの耐性が人間は高いと思われているけれど、それは法律とか社会のようなある種の虚構と暴力によって保たれているだけであって、生き物としての人間は、狭いところに押し込められていろんな個体とストレスなくやっていけるほど上等なものじゃないのかもしれない。

 

このことは掲示板全盛期(いにしへのみよ)には「スルースキル」と呼ばれ「アンチや粘着といった嫌なものを自分の関心から遠ざけて相手にしない」、極めて特殊な個人的才能でしかなかったものが、SNS時代になってほとんどのソーシャル性のあるサイトにはブロックやミュートとして標準装備されたことと無関係ではないだろう。あぼーん

ボタン1つでスルースキルが手に入らなければ、人間は激しいストレスを他者への攻撃や自己否定に向けるしかなくなる。

 

様々な人間がいて、もちろん嫌な人間、関わりたくない人間もいるリアルの空間で、人が取れる逃避行動は、嫌なものから距離を置いて、できる限り記憶から消し去ることだ。

 

そのためにこそ人間は無意識に対象との距離を常に計り、自分の記憶に都合よく生きる能力を獲得したのだ。「あのひとでなし!絶対許さない!」と言う人はいるが、実際に当のひとでなしを許せないからどうにかしてしまった人よりも嫌だから距離を置いてしばらくしたら忘れてしまった人の方が多いはずだ。

本当に全部律儀に嫌なことを覚えて反芻していたら人はストレスで身動きができなくなってしまう。

 

そんな世の中だからこそひとでなしが刺されることもなくのうのうと生きていけるということもあるのだが。

 

誰が加害者か、誰が被害者かという問題ではない。

もし追い詰められてもブロックできず、記憶をどれだけ書き換えてもストレスから逃れられない時、窮鼠でなくとも猫を噛んだり、暴力に訴えたり、マウントして精神の均衡を保とうとしたりするのだ。

「追い詰められる」と書いているが、本当に大したことではないのだ。

現実世界にはブロックもミュートも実装されていないから、たわむれに相手を消そうとしてみた、ただそれだけなのだ。

 

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▲実装された大人のミュート機能(のむタイプのまほう)