めふぁにっき

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お前はすでにサイボーグ

 

めふぁにっきです。

 

キュウソネコカミの『ファントムヴァイブレーション』という曲の歌詞に、

スマホはもはや俺の臓器」という歌詞が出てくる。

正直そんなに詳しいわけでもなかったが、大学の後輩がカラオケで歌っていてなんだこの歌詞は?!と気になったので知った。

 

生物としての人間のスペックの個体差は、実は想像以上に小さい。

個体として肉体が強いといっても、大抵3~4人の成人が本気で取り押さえればカタがつく。だから人間は道具を使って自身の能力を拡張してきた。

他の個体と協力したり、武器を持ったりして力を補強し、すぐに消える記憶を粘土板に書き留めることで自分の存在を時間的に、馬に乗って遠くへ移動することで空間的に拡張した。銃の登場以降は短期的な戦闘力の個体差は著しく小さくなり、(それまでの剣や槍が、熟練と体力のハードルが高かったことを考えると銃のデザインは画期的なものだった)人間はさらに強化人間の道を進んできた。

 

文明の歴史は人間強化の歴史であり、現代に至ってはもはや外部デバイスがなければ人間ではない。メガネがなければ近眼の人間が視覚障害者になるように、文明への参加は強化デバイスの使用が前提になっている。

歴史において国家や個人の勝敗を決したのは種族としての人間の能力差ではなく、強化人間としての差異である。

騎馬戦の時代には、装備と馬と訓練に金をかけられる貴族が戦闘における花形であった。生身の貴族が種として優秀だったのではない、強化人間として優秀なものが貴族だったのである。戦闘においては多数の銃を装備した人間を指揮した方が、少数精鋭の騎馬部隊よりも有効であることが明らかになって以来、貴族は「戦闘に特化した強化人間」としての地位を失っていった。

 

一昔前の家には必ず電話と電話帳があり、社会がそれを前提にして回っていたように、スマホが今は個人にとって必須の強化デバイスになった、ただそれだけの話である。

だからこそ「スマホは俺の臓器」なわけだが、さきほどの話に戻ると、道具としてのスマホは「銃」に分類されるだろうか、それとも「騎馬」に分類されるだろうか。

 

道具のデザインには、万人にすぐに使えるデザインと、熟練にコストがかかるが、熟練すると凄まじい能力を発揮するデザインとがある。だからさきほどの話で言えば万人にすぐに使えるのが「銃」で、熟練を要するのが「騎馬」だ。

アップルは、直感的なデザイン志向で誰にでも使える製品を目指している。

だから製品としてのスマホは間違いなく「銃」に近い。

知識のあるなしにかかわらず、金を支払えば誰でも使える。

 

だが、スマホというハードを通して提供されているソフトの数々を使って人が何をするか?という点に着目すると、スマホはむしろ「騎馬」に近い。これはインターネットやSNSの性質と親しいところがあり、「誰にでもアクセス可能」だが、実際にそれを使ってなにか能力を得ようとする段階になると激しい個体差が生まれるのだ。

 

Google検索一つとってもそうだが、誰が開いてもあのGoogleロゴは利用者を平等に受け入れてくれる。変なフィルターがかかって低所得者にだけ「現在、検索が大変込み合っています」表示がされるとかそういうことは決してない。

ところが、使う人によって検索サービスから得られる情報の量と質はまったく違うものになる。

それゆえに、スマホという強化デバイスにアクセスしている人は多数だが、スマホを活用してより強い強化人間になっている人はごく少数というギャップが生じる。

ここにアプリやプラットフォームビジネスが生まれる余地が生じるのだ。

 

そうしてスマホにアクセスしているだけの「弱い」強化人間から、道具を使って力を取り出せる「強い」強化人間へとカネや情報が流れる。

スマホやインターネットとはそういう強化装置である。

アプリやサービスを作っている「強い」強化人間よりもさらに強い強化人間は、AppleStoreとかいう鬼のような仕組をスマホを通してリリースできるような人間である。「弱い」強化人間から「強い」強化人間へとカネが流れる構造を作ると、あとは勝手に「強い」強化人間が集まってきて便利なアプリをどっさり作ってくれる。

アップル社は雇用契約も結んでいないのに、アプリ制作者や企業は朝から晩まで必死こいてアップルのためにアプリをリリースしてくれる。本当によくできている。

 

本当に人間を強化人間たらしめるものは、デバイスによる能力拡張なんかじゃなくて、「人をコキ使う才能」の方なのかもしれない。

 

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▲1人で焼肉を食う才能