心の底から陰キャで良かった
軽いネタバレを含みます。
妹がいきなり映画に誘ってきた。
映画『ジョーカー』を観ようという。
Twitterで評判を読んだら「あれは作品を”分かる”かどうかに人を選ぶ作品だ」と書いてある。
すこし気になってはいた。
怠惰なので気になっていた程度では映画を観たりしない。
なんかキッカケがあれば観てやらんでもない。
ちょうどいいタイミングで妹者から声がかかった。
「なんで彼氏と行かないの」
映画館は陰キャの兄と行くところではない。
彼氏とポップコーンの上で指先をつんつんするために映画館はあるのだ。
「彼氏はねえ・・・あいつ陽キャなんだよ」
「陽キャだと映画見れないとかあるか」
「陽キャじゃわかんない映画なんだよ」
「ほう」
「兄貴わたしと同じで陰キャだからさ」
「ほう」
「だから行こうよ」
「あまり嬉しくねえな」
日比谷の映画館に行く。
キャラメルポップコーンと、ペプシコーラと、マスタードたっぷりのホットドッグ。
準備万端で映画に望む。
キャラメルポップコーンは、キャラメルのかかったところだけ食べたらあとは食べない。
のこりは妹が食ってくれる。
案の定映画の終わりまでにあらかた平らげていた。
ジョーカーは、稀代の悪役、冷徹無比の犯罪者『ジョーカー』が、なぜ生まれたかというストーリーの映画である。
社会から爪弾きにされた男が、懸命に生きて、それでもあらゆる障害が自分を幸福から遠ざける。
唯一の救いであった自らのアイデンティティさえも、物語が進むにつれてすべてが虚偽と不幸に満ちていることが明らかになる。
何もかも崩れていく中で、『ジョーカー』としてのアイデンティティに目覚めていく。
多分、陰キャの感性でこれを見ると、鬱々としたシーンの描写から一転、社会とか自分を理解しない人間に牙を剥く瞬間がカタルシスに映るんだろう。
実際自分はそうだった。
文脈を読み取れるかどうかって知能の問題だろ???
そう思っていた。
たまたま、妹と一緒に見に来た映画館に、妹の大学の先輩カップルが見に来ていた。
なんでも医学部なんだそうだ。日本で一番頭がいい部類のカップルである。
頭のいいのと頭のいいのが付き合って頭のいい子供を作るんだろう。
優生学なんてレベルじゃない遺伝子選別が行われている。
そんな彼らが、上映が終わって、クレジットも終わって、映画館を出るタイミングでこうつぶやいた。
「なんか・・・よくわからなかったね」
「結局鬱々としてて、暗くて、何がしたかったんだろ、彼」
カマトトぶっているわけでもなんでもない、本当にわからないねという会話を、不機嫌にもならず上品にやってのける。
おそろしいことだ。
日本で一番頭のいいやつがこれがわからない。
解釈が違う、という次元ではなく、そこに解釈があること、感情移入の入り口があること自体を見いだせていない。
これは知能の問題じゃなくて感性の器の問題だ。
2時間ばかり同じものを観ていたにも関わらず、同じ文脈を受容していない。
いや、それを受容する感性を、あいにくと彼らは持ち合わせていない。
日本文化を理解しない外国人が、森の中の注連縄を無視して先へ進めてしまうように、彼らには目の前にぶら下がっている呪縛の記号を認識していない。
そうして、「この森の中に、聖域も結界も、そんなものカケラもなかったじゃないか???」と首をかしげている。
注連縄は目に入っている、だがそこに意味を見いだせていない。
「つまりさ」
「私とお兄ちゃんは鑑賞する適性があった。」
「つまり」
「陰キャだってことだね」
なんてこった。
「いやーお兄ちゃんぜったいわかると思ったんだよ。彼氏とかさ、彼氏のお母さんとかさ、『わたくし陽キャの極みでござい!!』みたいな人種で、こんなんみてもさ、暗い映画だね、とかしか言わないのよ」
「それで俺が選ばれたわけだ」
「そ」
「光栄ですな」
陰キャでよかった。
妹者は機嫌を良くして地下鉄で帰っていった。
俺は皇居の堀から大手町をしばらく眺めて、それからふらふら歩いて帰ることにした。