めふぁにっき

これから新時代を造ろう

ゾロ目が出たらラブホテル

今時の若い子らはクラスでも職場でも、リベラル的に正しくしていないといけないらしい。
おじさんにはよくわからん。

若い男女が近くにいたら惚れた腫れたあるのが当たり前だろうなんてのは今は昔の話。

 

えっお二人はどういった馴れ初めですか。
えっクラスで???職場で??えっどういうことですか???
交際してる???近くに座ってたってだけで???手を??出した??え??
え、うそでしょ?付き合ってるの??
え、だって、普通に、一緒にはた、働いてるのに?手を出したの?
けだもの!!ひとでなし!!フケツよ!!

 

冗談だけれど、あまり冗談でもないらしい。
場を共有していることは付き合う理由には今時ならないらしくって、
じゃあどこで恋愛するの?というとマッチングアプリらしい。
いやそっちの方がフケツなんじゃないのと思うのだけれど、
どうもそれはおじさんの感覚なんだそうで。

 

すごく雑に昭和と平成と令和で区切るけれど、
前二つのルールは、場を共有している男女の恋は「原則許可、ただし例外的に制約あり」だった。
今やそこはひっくり返って「原則禁止、ただし例外的に許可されうる」みたいなところになっている。らしい。

平成というのは結構長い時代で、セクハラ防止みたいな流れ一つとっても
前半では異性の尻を揉んだり猥談したりしてはいけませんよみたいな感じ
だったのだけれど、
後半になるとごはんに誘っちゃいけません。プライベートを聞いちゃいけません
みたいなところまで制限されるようになってしまった。


じゃあ令和は?というと、SNSとかLINEみたいなものが普及しきっているので、
そもそも失敗ありきのはずの恋愛で致命傷を負う可能性が出てきてしまった。

思い切って告白したところで、裏垢でLINEのスクショ回されたらたまらねえもんな。

そもそも趣味嗜好は複雑化して、より深くなって、個人が勝手にdigるようになった結果、同世代だからと言って共通の話題なんてものはなくなってしまった。
これを界隈化と呼ぶ。

文脈が深く、狭く、共有するためにはdigりのコストがめちゃくちゃ高くなっていくことだ。

ついでにいうと隣の畑が何してるかもよくわからない。

 

EDM好きですだけでは共通の話題にならない。
ダブとかブロとかの細かい分類があるのでまだ油断してはいけないし、
好きなDJが違ったらもう文脈終了である。

 

だから、近くにいる男女は制約が大きい上にコストが高い。
マチアプはその点最高だ。
そもそも恋愛ありきで会える、セックスなんかどうですかと切り出してみてもいい。
話が早い。判断基準?知らんがな。


結局ローカルな価値を見定められないとなると、話はどんどんグローバルな価値に寄っていってしまう。

年収とか、ルッキズムとか、なんかそういうのは全部こういうのに起因してるらしい。

逆に、マチアプがあることで、なおさらそれ以外の場における男女間のクリンリネスも進む。

 

排泄は恥ずべき欲求で秘すべきものだ。だからトイレでする。

性欲も加害性があってpublicでは表出しちゃいけない。

だからマチアプでする。

あっあなたそこはクラスですよ、publicです、だめです。

だめですよ生身の人間に好意を向けるとかだめです。マチアプでしてください。

 

これが現代の若者が患っている病なんだとすると、究極的にはロールコミュニケーションへの囚われなのだろう。

クラスや職場のような環境においては、publicはクリーンであるべきという規律に従って、クリーンなロールを演じ続けている。

清く正しく問題も起こりにくい、どこに出しても恥ずかしくないロール。

 

そのロールをはみ出すことは許されないし、いつの間にかロールをはみ出す方法がわからなくなってくる。

一方で、恋愛ありき、セックスありきのようなロールを与えられた瞬間、
それはそれで別のロールにハマってコミュニケーションができるようになる。


ただ、これもロールから外れることはできない。
そこから始まった恋人関係を、それ以外の友人関係や職場関係と融合させようにも、ロールとロールをつなぐ方法を知らないのだから。

そんなわけで、あえてロールを与えることでコミュニケーションを図ろうというのが流行っている。
共通の文脈がないのであれば、共通の文脈をあえて作ってしまおう!という試みだ。
わざわざ会場に出向いて、お金を払ってわざわざ文脈を買う。
特定のシナリオとロールを与えられて、その中で相手に対してコミュニケーションを取る。
なにかトチっても、それはロールがトチったんであって自分がトチったわけじゃない。

 

こちとらおじさんなので全部めんどうくさいと思ってしまう。
別に20年前だったら2000円の居酒屋でポッキー買ってくればできたことを外部の団体に金を払ってその場限りの文脈を買う。

マチアプもお互い文脈がないので、わざわざ文脈を造ろうとして、
小難しいアルファベット4文字で性格を表現してみたりして、
それで自分をタグ付けして理解してもらったような気になっている。

全部面倒くさいからこういうのはどうだろう。
俺が居酒屋をやる。
お前らは来い。金を払え、酒を飲め。

お前らは職場でもクラスでも知り合いを連れてくる。
店員がメニューと一緒に、どんぶりにいれたサイコロを持ってくる。


チッチのチ!

ゾロ目が出たらラブホテル!

 

とかでなんかもうよくないか。速攻で退店してもらって構わないぞ。
店の利益的には薄い酒たくさん飲んでもらってからラブホテル行ってもらった方が儲かるんだが、
もう文脈が欲しいだけなんだろ、自分から手を出すと不同意罪で晒されて殴られるのが嫌なんだろ、
だったらもうゾロ目が出たらラブホテル!でよくないか。

サイコロ3個とかだとまあそんなに確率高くないからな、好きなだけチンチロしてくれ。
そうなると俺は何でつかまるんだろうな、管理売春かな、賭博罪かな、公序良俗違反かな。
なんでもいい、お前ら俺の店に来てチンチロしてくれ。

瀬戸内海賊伝

 

長期にわたる統治術というのは、要するに継承の方法である。

 

誰が継ぐべきか、何を継ぐべきか、どう継ぐべきか、そもそも我々とは誰なのか。

もっともわかりやすいのは血縁である。Gene(ジーン)というやつだ。
ただし、人間の承継ではGeneとMeme(ミーム)の組み合わせが重要になってくる。
Memeと比較するとGeneはランダム性が極めて高い。上振れもすれば下振れもする。

 

中国人の宗族メソッドはGeneのランダム性に重きを置いており、
同じ姓というだけでどんな遠縁でも繋がって支援する。
代わりに、「化けた」親戚がいれば一族郎党でそいつにたかる。

 

ランダム性に対して手広く投資し、化けたポートフォリオで一気にのし上がる。
4000年の歴史の中で数世代かけて練り上げた華僑のメソッドであり、
これがゆえに世界貿易の舞台では華僑が幅を利かせている。

 

我が国日本においては、急峻な山と、島と湾と入江の複雑な地形が
手広いGeneの撒布を阻んでいる。


古代では広い平野と呼べるようなものはなく、地形ごとに生きる知恵があった。

入江に、島に、谷口に、山に、それぞれ知恵の継承者としての神が住まい、
農耕民による一極集中の支配を拒んでいた。

 

この国土ゆえに、日本には相対的に血縁よりも地縁の力が強い特徴がある。

 

単一の宗教を信じ、単一の血縁を貴ぶ平家が壇ノ浦で滅ぼされ、
次に政権を握ったはずの源氏は相模国の山野で栄華を極めるかに見えたが、
わずか数世代で山々の神に魅入られ、
同族同士で内乱を繰り返してこれも滅ぶこととなった。

同じ言葉を話すはずの同族が、いつの間にか異なる言葉を話し、散り散りとなる。

聖書においてはこれをバベルと呼んだが、
日本の国土は3世代も経たぬうちにバベルが発生し、
気づかぬ間に同じ祖を持つ者同士で殺し合いをする魔の土地なのだ。

 

地縁でも血縁でもない、独特のメソッドを持つ集団が瀬戸内海賊である。

まず、瀬戸内という地形だが、これが極めて稀有な地形なのである。

下関を出れば半島、大陸へつながり、大阪平野には大規模な大和政権があり、
南には四国があるために危険な太平洋からは隔てられている。

十分な広さがある一方で、沿岸の地形がほどほどに複雑なため、
誰でも簡単に航海できるわけではない。

この沿岸の水先案内人を端緒として自然発生した世界有数の海洋集団が
瀬戸内海賊である。

 

 

海は我らに巨万の富をもたらし、また同じ海がいとも簡単に幾万もの生命を奪う。

 

 

島には潮の満ち干を熟知した住民が住まい、
隣の島とを安全に行き来する方法は彼らしか知らない。

そのようにして島と島を線でつないでいくことで、
長距離の航路が浮かび上がってくる。このような構造においては各部と全体が等しく重要であり、このことが極端な中央集権構造の発生を阻んでいる。

陸上の兵站(logistics)においては、
全体が発達していくことでネットワークに階層が生まれ、中央と末端が生まれていく。

そしてこれが陸上権力の源泉となる。

 

全体が等しくチョークポイントである海路においては、
全体を統括する頭領は生まれても、あくまで各部の重要性に変わりはないのだ。

また海賊の組織構成も、極めて分散的な構造となっている。
海を生業とし、そのエッセンスが人の経験と知識である反面、
その一人一人はいつ海に没してしまうかわからないリスクと隣り合わせなのである。

航路や地形にもよるが、扱う船も小舟から数十人同乗できる安宅船まで、
非常に幅広い。

海賊が担う任務も、漕ぎ手や戦闘だけではなく、
航路の安全保障・水先案内のために1~2名が同乗することもある。

このようなランダム性の高いミッションにおいては権力集中はできない。

常に育成をし、常に人材に冗長性を持たせ、常に情報交流をし続けなければならない。
物資の需給や航路の状況によってはミッションや組織自体を大幅に変更する必要もあっただろう。

 

村上水軍の一派は、このようなランダム性に対抗するため、
一部の島で住民すべてに村上姓を名乗らせた。

これはGene主義からするとまったくありえない方法ではあるが、
姓を現代企業と同じように考えるとそこまでおかしな話ではない。
高いランダム性の前には、陸上で求められる血統の正当性など、
些末な問題であったのだろう。

 

横浜家系童貞

高校生になったら。

 

高校生になったら青春の頂点がやってくる、

そう聞いていた。

 

別にそんなことはなかった。

 

放課後の教室に残って課題をやっていた。

教室の後ろの方で女子がたむろして

なんか延々コイバナをしている。

全然それはいいのだが、

男子に聞かれても大丈夫なんだろうか??

というラインの会話をしている。

 

下ネタとかではなくって、

なんか噂の作用とか考えたら

もう少し誰が誰好きとか

どこぞの先輩がイケてるとか

そんなでかい声じゃ話さないよな??

というラインの話だ。

 

あとになって思うと、

あれはなんか二つくらい説があって、

16の小娘にはそういう配慮ができなかった、

という説と、

俺という人間はそういう配慮の対象ではなかった

という説があるのだが、

たぶん両方なんだろう。

 

自分は男子としては見られていない、

というのは思春期の男子にとって結構な原体験であった。

 

17歳以降はインターネットにどっぷりつかるようになった。

高校もあんまりちゃんといっていなかったので、

学校にいる同級生よりもインターネットの同世代のほうが

心理的にはよほど関わりが深かった。

 

あるとき東京は秋葉原でオフ会をやるというので、

横須賀の祖父母宅に泊まらせてもらって上京し、

高校生数人のオフ会に参加した。

 

当時インターネットでつるんでいた界隈で、

なんか明らかに男を食い散らかしている横浜の小娘がいた。

こういう子は、15~16くらいになって

急にモテまくる状況が楽しくてしかたないので、

好きとかどうとかあんまり関係なく

とにかくそのへんに粉かけまくるタイプだったのだが、

オフ会にはこの小娘も参加していた。

 

オフ会自体は特に何も問題もなく、

楽しく始まって楽しく終わった。

 

問題なのはオフ会からの帰り道である。

 

秋葉原から横須賀へ帰るには、

横浜までは京浜東北線、横浜で京急に乗り換えする必要がある。

 

同じ車両に、

逗子住のダチ、

横須賀へ帰る俺、

横浜住の粉かけ小娘の3人が乗っていた。

 

ドア付近でほどほどの距離感を保って立つ形になっていたが

粉かけ娘は華の16歳、粉をかけるのが楽しくて仕方がないお年頃なのだ。

 

川崎を過ぎたあたりで

寄りかかるような格好で粉かけ小娘はやたらボディタッチをしてくる。

こちとら東北の田舎育ち、

異性からは空気のように扱われることに慣れきって生きてきた男の子なのだ。

 

女子に免疫がない中、ぺたぺた触られたらたまったもんじゃない。

このまま横浜乗り換えで降りたら

なにがどうなるかわかったもんじゃない。

何かが始まってしまうかもしれないし、

何かが終わるかもしれない。

 

目の前でぺたぺたされてるのに何も言わない同乗のダチに助けてほしくって、

思わず声をかけた。

「お前、この後、どうするんだ、逗子に直帰??」

「あー、大船で降りて家系食ってこうかと思うけど、来る??」

「行く行く!!俺家系食べたことないし!!」

二つ返事で横浜乗り換えをキャンセルして

大船で人生初の家系を食らうことに決めた。

 

ちぇーという反応の粉かけ小娘は、横浜で降りて行った。

大船で降りて、生まれて初めての家系を食べた。

深夜にラーメン屋に行くということ自体が

17歳にとっては何か悪いことをしているようでワクワクした。

家系はうまいし、ほうれん草を浸すともっとうまい。

スープをしみこませた海苔で白米をくるんで食べたらこんなにも美味しかった。

 

最高の気分で大船からJRで横須賀へ向かった。

この区間妙に時間がかかる。

JR横須賀から京急汐入への乗り換えは妙に遠い(15分くらいかかるんじゃなかろうか)

そんなわけで祖父母宅に着いたのは日付が回る直前になってしまった。

 

ちなみに生まれて初めて食べた大船の『大原家』は、3年くらい前に久々に食べにいったら、

白米を追加で食べるにはちょっと重すぎた。

17歳の若さを実感する結果になった。

 

 

泣けない男

 

 

あまり泣けない。

泣かないのとは違う、なんというか泣けないのだ。

数少ない例外を除いては、ほとんど泣こうという気にならない。

自分が泣けないものだから、他人が泣くのが不思議で仕方がない。

女が泣くのはまだわかる。古くさい感覚なのは重々承知だが、女は泣くものと心のどこかで納得している。

 


困るのは目の前で男に泣かれた時だ。

どんな気持ちで泣いているのか分からないので、どう対処したらいいかわからずに戸惑ってしまう。

戸惑った挙句、大抵は「ほう、泣いたか…」というようなテンションで相手をまじまじと見つめることになる。本当にどうしていいかわからないのだ。

こんな仕草を繰り返しているので、何度かドン引きされたこともある。

 


俺は沈黙が苦手だ。

人と居る時はその沈黙を塗りつぶすように喋り倒すくせがついてしまった。

相手に泣かれると、沈黙に嗚咽が入り混じる。そんな時間が1分、5分と過ぎる。

もう耐えられない。

 


失恋した友人に目の前で泣かれた時、ぼそっと「お前は泣けていいなぁ…」と呟いてしまったことがある。

 


なんかものすごくサイコ扱いされた。

 


件の友人は、人情味溢れるいいやつで、後輩からの人望も厚かった。

サークルの追い出しコンパでも、たくさんの後輩に囲まれて、花束を持って泣いていた。

同じ会で俺は、ただ壇上に上がって淡々と挨拶をして降りただけだった。(花束は貰った)

 


その時のことを振り返って、友人は「お前はあの時も泣かなかったな、本当に泣かないんだな、すごいな」と感嘆していた。

 


泣かないんじゃない、泣けないんである。

 


子供の頃から泣かなかったわけじゃない、むしろよく泣いていた。5歳くらいの時、保育所にいたロシア人の女の子と毎日取っ組み合いの喧嘩をして、毎回負けて泣かされていた。

17を過ぎた頃からだろうか、不思議と泣けなくなってしまった。

 


先に例外があると書いたが、泣けるシチュエーションというのはある。

いわゆる忠義・報国物は泣けるのだ。

グスコーブドリの伝記』とかあのへんは普通に泣ける。込み上げてくる。

自分でも止められない。

これが「泣く」か!と1人で納得して感激してしまう。

我ながら気持ちが悪いのはそれ以外ではまったく涙腺が反応しない。

 


秒速5センチメートル』が泣けると聞いて観たのだが、絵が綺麗だなーと思っている間に映画が終わってしまった。

 


少し不安になって、父親に相談してみたことがある。

何言ってんだ、男は泣かないもんだ。

そう返ってきた。

 


大学の教員で、若者と普段から触れ合っているだけあって、妙に物分かりがいい親父だが、本人の人格の真ん中には一本太い昭和の男観が通っている。

 


20代の頃でも例外的に泣くことはあったが、それは三徹して訳がわからなくなった時だけらしい。

 


ついでに親父が別の話をしてくれた。

毎年卒業シーズンになると、ゼミ全員でお別れ会をするそうである。この時に、順番で全員別れの挨拶をするそうだが、例年女子が挨拶の最中で泣き始めてしまい、スケジュールが1時間は遅れていた。1人泣き始めると次の子も泣く、と言った具合に連鎖してしまうそうだ。

 


ところが、少し変わった工夫を始めたら、その年から泣く学生がほぼいなくなったそうである。

1人10分の持ち時間を決め、5分ごとに呼び鈴をチンチン鳴らすようにした。

泣いていても呼び鈴を鳴らされていては興醒めである。途端に学生は泣かなくなり、連鎖することも無くなった。

 


「結局演出とかその場の雰囲気で泣いてるだけなんだよな。雰囲気を変えてやれば泣かなくなるってことさ。」

そんなことをさらっと親父は言い放った。


うわぁ、とだけ返しておいた。

なんかものすごくサイコ扱いしたくなった。

それでも人は権威を求める

本記事は記録のため、筆者が感じたことを好き勝手書いているものである。

 

2021年7月。

『コロナ渦』が始まってからおおよそ2年目に突入した。

打開策となるワクチンがリリースされ、希望者向けの集団接種が開始された。

6月下旬から7月にかけて、反ワクチン派の情報拡散が相次いだ。

実はこれ以前から「遺伝子組み換え人間にされる」「マイクロチップを埋められる」「磁性がついて金属がくっつく」「5Gに接続される」等々、様々な流言はあった。

しかし希望者向けの接種が始まったことで、国民全体が接種するか、しないかの決断に直面し、リアリティが高まったようだ。


接種の是非は、私個人としては個人の決定に任せるという立場である。

自身の身体に関する決定権は個々人に委ねられるのが妥当だろう。

そうはいっても今後、接種については、するにしてもしないにしても、職場や公の場での同調圧力が大なり小なり発生することは容易に想像がつく。

だがそれらの同調圧力を加味してもなお、個人の決定に委ねるのが現代社会の基本的なスタンスだと私は思う。

(集団免疫の形成には多数の接種が必要であること、ワクチンが従来型ではないこと、補償について曖昧であることなど議論のポイントは数多くあるが、個々の身体のリスクは個々が考えるべきという立場である)


さて、今起こっている反ワクチンのムーブメントだが、ここにはいくつかの特徴がある。

彼らは個人の選択ではなく、共同体としての正解を決めたがる。

ベジタリアンで喩えるなら、「俺は野菜しか食わない」は個人の選択だが、「お前もお前も野菜しか食うべきではない。この社会は野菜以外食うべきではない」は個人の選択の範疇をはみ出ている。彼らが求めているのは共同体としての正解が「肉を食わない」になることである。


別にワクチンが毒だろうが薬だろうか、個々にそのリスクの判定をすればいいと思うのだが、それを声高に叫び、情報を拡散させずにはいられない、ある種の強い感染力がこのミームにはある。


今回は団塊ジュニアを中心とする50〜60代の真芯に響いている。ある社会運動が広がりを見せる時、その背景にあるのは金でも合理性でもなく、「リアリティのある共同幻想」がそこにあるかどうかである。特定の世代の心象風景に合致したイデオロギーが出現する時、その主張の合理性はさて置かれ、強い共感をもとに推進される。


心象風景を構成している要素としては、以下の2つの要素が挙げられる。

・集団接種の時代

・「公」が強かった時代 ⇔「公」の権威が失墜した時代


ワクチン接種というと、年配の世代に想像される光景は「学童集団接種」である。

BCGやはしか以外のインフルエンザのような感染症も、70年代、80年代の一時期には集団接種の対象であった。

幅広い予防接種が公衆衛生の範囲であり、公衆衛生とは文字通り「公」のものであった彼らにとって、現代で聞く「集団(希望者)接種」という言葉が表すイメージも、「公の」「強制力を持った」というニュアンスが無意識に伴ってしまうのも無理はない。したがって、現在論争されているワクチンの是非についても、これは個人の決定の問題ではなく、「共同体における正解」の問題なのだ。

また、医療についての「公」の権威が失墜した時代でもある。

サリドマイド訴訟(60〜70年代)、薬害エイズ(80年代)など、厚生省は医療不信につながる事件に深く関わり、これらのことが90年代以前に生まれた世代には深い衝撃として刻まれている。これら自体は非常に重大な事件であり、医療そのものに対する信用を決定的に失墜させた。社会として記憶に刻まなくてはならないことではあるが、この記憶の有無が根本的な医療不信の一因となっている。


結果として、ある程度年配になるほどに、

①医療は個人ではなく、共同体によって決定される 

②「公」の医療は信用できない(既存の権威の否定)

という一見矛盾する軸を自己内部に抱えている。


口で言うところには反権威だが、行動様式は権威主義なのである。

このような構造では、当人の心の中の「権威」の座が空白となっている。

この座を、数々の代替医療・民間治療・新興宗教が虎視眈々と狙っている。


特に、7月時点での反ワクチン側の論拠は以下の2段構えになっている。

①ワクチンが「毒」であることを補強する軸

②流行しているものを情報操作とする、あるいは「自然免疫」で対応可能なものとする軸

西洋医学の傲慢だとか、製薬会社の陰謀だとか、様々な論法がある。

情報を拡散し、自由な意見をぶつけあい、議論を重ねることはいいことだと思っているので、①はどんどん盛んにやればいいと思っているのだが、危ないのは②の軸である。


マーケティングの基本はニーズを把握し、そこに合致したウォンツに叶う商品を売ることである。ニーズがなければ?ニーズを作ればいい。


ワクチンという選択肢を封じる、ついでに既存医療への不信感を煽る。

それでもやっぱりコロナは流行っている。

かからないためには?という不安が生じる。

この不安に対して、タイミングよく「自然免疫が上がる」アイテムが登場する。

物が売れる。商魂たくましいことである。


権威も、権威の不在も金になる。

現代社会が求めるところの、自己決定する個人などどこにも居ない。

エビデンスを読む、データを検証する、それだけコストのかかることをやって、最後の最後に決めるのは自分自身だ。

自分にとって、この世で一番権威のない人間は自分なので、そうなるとほとんどの場合、やはり自分では決められない。自分の決定が正しいと保証してくれる何かを必要としているのだ。

でも現代社会には神も仏もいないし、すべてを背負ってくれる国もない。


それでも人は権威を求める。

 

 

 

注目が身を滅ぼす

日本の大学には、ミスコンという悪習がある。

学祭のステージで、学内の美人を集めて優劣をつけるというイベントである。

申し訳程度にミスターコンというものも催されるが、あくまで主役はミスコンである。


母校の学祭にはそれまでミスコンがなかったのだが、どういうわけか俺の代からミスコンが毎年開催されることとなった。どうも同期に仕掛け人がいるらしい。

※訂正:もともとミスコンは存在していたとのこと(2021年07月07日)

 

ミスコンが悪習だというのは、風紀がどうとか、性の商業化がどうとか、そういう文脈で言いたいわけではない。

コンテストは人をコンテンツに変えてしまう。

コンテンツに変えられた人は、通常の人間よりも膨大な量の注目を浴びる。

そのことが成長や飛躍につながる人間もいれば、膨大な量の注目を処理しきれずに人格を壊してしまう人もいる。母校のミスコン出身者でも何人かそういう人物を見てきた。


その意味で、SNSの界隈でちょっとバズることも、コンテストで己の分に見合わない注目を浴びることも同じくらい害悪だ。

バスったことがないのでわからないが、バズるというのはめちゃくちゃ気持ちがいいらしい。

一度、SNSの大学界隈で、バケツプリンを作ってバズった男がいた。

たかだか3000人規模の界隈でバズった程度でも、報酬系をいじくり、人格を変容させるには十分だった。以降の彼は、バケツプリンの〇〇と名乗り、月に1度バケツプリンを作ってはツイッターにアップする男になってしまった。


完全に壊れている。


一方で、そういった注目がその後の成長に必ずしも悪いだけとは限らない。

大学界隈でのプチバズで顔出しに慣れたことでイベント開催者になった後輩もいるし、SNSでは少し有名なフェミニスト活動家になった後輩もいる。


言ってしまえば、もともと注目に慣れている人間はちょっとバズったくらいでは人格を持ち崩したりしない。

非常に残酷な事実だが、思春期から20代までずっと、可愛い子として生き続けてきた子は人格トラブルには無縁なのだ。街を歩けば声をかけられるし、知り合いの知り合いくらいからは常にアプローチを受けている子はあしらい方もわかるし、注目そのものに慣れている。

だから、注目度が上がることがそのままプラスになる。


反面、注目が害になるタイプの人格も存在している。

こういう部類は、人格の悪化しやすい側面が注目によって増幅されてしまう。

注目されていないと気がすまない。

元の人格と、「注目されている〇〇としての自分」との間に混同が起こる。

もともと乖離が激しいものを混同する時、プライベートでの振る舞いが決定的に崩れだす。

茶店で茶を飲んでいても、すべての客が自分に無関心な場合と、一定確率で〇〇さんですよね?と話しかけられる場合では、自然に己の振る舞いも変わってくる。

そうしているうちに素の自分と見られる自分の使い分けができなくなってきて、後者がプライベートを侵食し始めた時、自分の人格が、生活が、自分のものではなくなっていることに気づくのだ。


また、高い注目は良い話も持ってくるが、同時に悪いものも寄ってくる。

「魔が寄ってくる」というもので、接続しているネットワークが大きいと、1000人に1人のいい人に出会える確率も上がるが、ほとんど同じだけ1000人に1人クラスのどクズと遭遇する確率も上がるのだ。注目に慣れている人間の場合、注目の良い面を受け入れ、悪い面をあしらう術を心得ているが、この術を持たない場合、自分に対する注目そのものに身を滅ぼされることになる。

「注目が低い世界」と「注目が高い世界」では世界のルールが異なるので、低い世界での最適解が、高い世界では自滅を招く恐れがあるのだ。

低い世界では知り合いにはある程度愛想よくしておくのが正解だが、高い世界では、話しかけてくる相手がストーカーの可能性、ミーハーの可能性、あるいは自分の悪評を書き立てるインフルエンサーの可能性をよくよく考慮して振る舞わなくてはならない。

この問題はかつて芸能界固有のものだったが、SNSやYouTuberの出現により、対処のノウハウがない元・一般人も抱える問題となっていった。


不用意な注目はこのようにして、内側と外側から人格を壊していく。

あとに残るのは、人格がちょっと壊れた、不遜で少し歳を食った小綺麗なねーちゃんだけである。


ちなみに当のミスコン仕掛け人だが、まあ人それぞれいろんな人生があるよね、とすっかり知らん顔である。

 

究極かまってちゃん大戦

※この記事は『攻殻機動隊』シリーズのネタバレを含みます。


広告は日々進化している。

古代から広告は存在したが、時代に合わせて変化し、進化してきた。

広告は、販売者や生産者が人の意思決定に介入しようとする試みである。

商品Aだろうが商品Bだろうがどっちでも変わらない意志決定の場において商品Aが選ばれる確率を上げるための操作、それが広告の役割である。


広告は、ありとあらゆる手段で人の気をひこうとする。

べつにプロモーションに関係なくても、人の気が引ければなんでもありなのだ。

美女がビールを飲む広告がある。

おそらくだが、ビールの製造工程にはまったく関わっていない。

だが、ビール単体の画像よりも、美女とビールが写った画像にはより人を惹きつける力がある。だから広告には好ましいもの、望ましいものが積極的に取り入れられる。


かつては多くの人に見られるだけでよかった広告も、近年はさらに複雑に変化してきている。

ハゲにパーマの広告を見せたら無駄撃ちだ。

ハゲにはパーマをかける髪がない。

だから広告は、見せる相手を自ら選ぶように進化した。

おかげでハゲには髪が必要な広告は表示されなくなっていく。

ハゲにはハゲ向けの、OLにはOL向けの広告が表示される。


見てもらっても意思決定に影響がなければ意味がない。

効果のないものは淘汰され、効果のあるものは拡大される。

だから広告は、広告自身の効果(コンバージョン率と呼ばれる)を測定し、自らをより効果的なものにバージョンアップできるように進化した。


これらの変化は、個人が1人1台のデバイススマホ)を保有していることを背景に発展してきた。

時代に合わせて広告は変化する。

その時代特有の環境で、より効果的に人の気を引く方法を編み出していく。


まもなく、対応すべき大きな状況の変化が訪れる。

というより変化はすでに起こりつつある。

広告、テクノロジー、あるいは企業はこの状況に対応しなくてはならない。


リモート環境の進展、1人複数のデバイス持ちが当たり前の環境。

人の意識はよりユビキタス(いつでも、どこでも)な環境に近づきつつある。


このことは、人が何に注意を向けているかの捕捉がより難しくなることを意味する。


家にいるからといってその注意が家にあるとは限らない。仕事をしているかもしれない。

また、1つのデバイスにPVのログが残ったからといって、その広告を見ているとは限らない。仕事用のPCを開きながら別のディスプレイでアニメを見ているかもしれない。

この意味でテレビは大敗を喫した。

お茶の間でテレビをつけていても、その前に座っている人がツイッターにしか注意を向けていなければ、視聴率がどれだけ上がっても広告として本質的に機能しないからだ。

だから広告の次の進化の要件は、「人の意識がどこに向いているか?」の捕捉の精度を上げることだ。

テクノロジーが進歩するほど、広告が直面する問いはより洗練された、本質的な問いに近づいていく。人の注意はどのようにして向けられるのか、そしてどうやったら注意を引き、意志決定に介入できるのか。

この戦いはすでに始まっている。

覇権企業と呼ばれるような大企業は各家庭に格安のセンサーを送り込んでいる。

アレクサやシリといったデバイスが個人や家庭の音を集音し、学習を進める。

これらのデータは、既存のサービスの向上のためにも使用されるが、本当に覇権企業が狙っているのは「個人の注意が把握できる方法と環境」の整備である。


そしてそのような環境が整備された暁には、実現した企業は次の覇権企業となる。

今度こそ確実に国家を凌駕する企業が現れるだろう。

次の環境、すなわち、個人の意識の注意が捕捉できるようになった世界で、争われるのは「個人の注意のリソース」そのものになる。

今映画を見ているとか、どこに居て誰に会っているかということはあまり問題にはならない。マルチタスクが当たり前の世界で、個人の持つ「注意」の総量をどれだけ任意のコンテンツに割かせるかの勝負になる。

具体的にどんな手段が講じられるかは今のところSFの領分だ。


攻殻機動隊というSF作品の中で、個人の「注意」のリソースを独り占めしてしまう映画監督の話が出てくる。

詳細は省くが、攻殻機動隊の描く未来の世界ではほぼすべての人が脳をサイボーグ化し、現実世界で生きながらも、オンラインの世界に接続できる環境を生きている。

このオンライン環境はチャット、TV会議レベルから全感覚レベルまで深さを選べる。

だからこの時代の人々は、常に複数のレイヤーで接続し、マルチタスクを行っている。

現代でも、TV会議しながら他の人にチャットを打つことは可能だろう。


しかしときに、特定のコンテンツに全感覚を奪われ、元の身体に帰ってこれなくなることがある。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』12話ではそんなコンテンツの話が描かれる。


そのコンテンツとは、ある映画監督が築き上げた映画館である。

この映画館は現実には存在せず、仮想空間の中に存在している。

全感覚で没入できるVR映画館のようなもので、そこでは延々と主の映画監督が制作した映画が上映されている。

悠久の時の中で、映画館に迷い込んだ人々は映画を観て、待合室で映画の感想を語り合う。

あまりにその映画たちが魅力的すぎるばかりに、人々は映画館から去ることを忘れ、元の身体に意識を戻せなくなってしまう。文字通りの人事不省となってしまうわけだ。


この映画館は純粋に映画を作りたい想いでつくられたものであって、広告ではないが、おそらく、人の意識や注意について、この話に示唆されるところは大きい。

すべてがオンラインになり、真の意味でユビキタス社会が実現された時、最後の最後は「人の意識」「人の注意」という有限の資源を奪い合うゲームになるだろう。

かまってちゃんとかまってちゃんが繰り広げる壮絶な競争の中から、ほとんど魔術的に人を魅了する脅威的なコンテンツが生まれてくる。それは時に、現実世界を生きるよりも圧倒的に「リアリティ」のあるものかもしれない。

なぜ現実を生き、そこから自分は何を得るのかよくよく考えておくことは、数十年後に向けた大きな投資になるかもしれない。

Netflix 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX リンク↓

https://www.netflix.com/title/70213091?s=a&trkid=13747225&t=cp