泣けない男
あまり泣けない。
泣かないのとは違う、なんというか泣けないのだ。
数少ない例外を除いては、ほとんど泣こうという気にならない。
自分が泣けないものだから、他人が泣くのが不思議で仕方がない。
女が泣くのはまだわかる。古くさい感覚なのは重々承知だが、女は泣くものと心のどこかで納得している。
困るのは目の前で男に泣かれた時だ。
どんな気持ちで泣いているのか分からないので、どう対処したらいいかわからずに戸惑ってしまう。
戸惑った挙句、大抵は「ほう、泣いたか…」というようなテンションで相手をまじまじと見つめることになる。本当にどうしていいかわからないのだ。
こんな仕草を繰り返しているので、何度かドン引きされたこともある。
俺は沈黙が苦手だ。
人と居る時はその沈黙を塗りつぶすように喋り倒すくせがついてしまった。
相手に泣かれると、沈黙に嗚咽が入り混じる。そんな時間が1分、5分と過ぎる。
もう耐えられない。
失恋した友人に目の前で泣かれた時、ぼそっと「お前は泣けていいなぁ…」と呟いてしまったことがある。
なんかものすごくサイコ扱いされた。
件の友人は、人情味溢れるいいやつで、後輩からの人望も厚かった。
サークルの追い出しコンパでも、たくさんの後輩に囲まれて、花束を持って泣いていた。
同じ会で俺は、ただ壇上に上がって淡々と挨拶をして降りただけだった。(花束は貰った)
その時のことを振り返って、友人は「お前はあの時も泣かなかったな、本当に泣かないんだな、すごいな」と感嘆していた。
泣かないんじゃない、泣けないんである。
子供の頃から泣かなかったわけじゃない、むしろよく泣いていた。5歳くらいの時、保育所にいたロシア人の女の子と毎日取っ組み合いの喧嘩をして、毎回負けて泣かされていた。
17を過ぎた頃からだろうか、不思議と泣けなくなってしまった。
先に例外があると書いたが、泣けるシチュエーションというのはある。
いわゆる忠義・報国物は泣けるのだ。
『グスコーブドリの伝記』とかあのへんは普通に泣ける。込み上げてくる。
自分でも止められない。
これが「泣く」か!と1人で納得して感激してしまう。
我ながら気持ちが悪いのはそれ以外ではまったく涙腺が反応しない。
『秒速5センチメートル』が泣けると聞いて観たのだが、絵が綺麗だなーと思っている間に映画が終わってしまった。
少し不安になって、父親に相談してみたことがある。
何言ってんだ、男は泣かないもんだ。
そう返ってきた。
大学の教員で、若者と普段から触れ合っているだけあって、妙に物分かりがいい親父だが、本人の人格の真ん中には一本太い昭和の男観が通っている。
20代の頃でも例外的に泣くことはあったが、それは三徹して訳がわからなくなった時だけらしい。
ついでに親父が別の話をしてくれた。
毎年卒業シーズンになると、ゼミ全員でお別れ会をするそうである。この時に、順番で全員別れの挨拶をするそうだが、例年女子が挨拶の最中で泣き始めてしまい、スケジュールが1時間は遅れていた。1人泣き始めると次の子も泣く、と言った具合に連鎖してしまうそうだ。
ところが、少し変わった工夫を始めたら、その年から泣く学生がほぼいなくなったそうである。
1人10分の持ち時間を決め、5分ごとに呼び鈴をチンチン鳴らすようにした。
泣いていても呼び鈴を鳴らされていては興醒めである。途端に学生は泣かなくなり、連鎖することも無くなった。
「結局演出とかその場の雰囲気で泣いてるだけなんだよな。雰囲気を変えてやれば泣かなくなるってことさ。」
そんなことをさらっと親父は言い放った。
うわぁ、とだけ返しておいた。
なんかものすごくサイコ扱いしたくなった。
それでも人は権威を求める
本記事は記録のため、筆者が感じたことを好き勝手書いているものである。
2021年7月。
『コロナ渦』が始まってからおおよそ2年目に突入した。
打開策となるワクチンがリリースされ、希望者向けの集団接種が開始された。
6月下旬から7月にかけて、反ワクチン派の情報拡散が相次いだ。
実はこれ以前から「遺伝子組み換え人間にされる」「マイクロチップを埋められる」「磁性がついて金属がくっつく」「5Gに接続される」等々、様々な流言はあった。
しかし希望者向けの接種が始まったことで、国民全体が接種するか、しないかの決断に直面し、リアリティが高まったようだ。
接種の是非は、私個人としては個人の決定に任せるという立場である。
自身の身体に関する決定権は個々人に委ねられるのが妥当だろう。
そうはいっても今後、接種については、するにしてもしないにしても、職場や公の場での同調圧力が大なり小なり発生することは容易に想像がつく。
だがそれらの同調圧力を加味してもなお、個人の決定に委ねるのが現代社会の基本的なスタンスだと私は思う。
(集団免疫の形成には多数の接種が必要であること、ワクチンが従来型ではないこと、補償について曖昧であることなど議論のポイントは数多くあるが、個々の身体のリスクは個々が考えるべきという立場である)
さて、今起こっている反ワクチンのムーブメントだが、ここにはいくつかの特徴がある。
彼らは個人の選択ではなく、共同体としての正解を決めたがる。
ベジタリアンで喩えるなら、「俺は野菜しか食わない」は個人の選択だが、「お前もお前も野菜しか食うべきではない。この社会は野菜以外食うべきではない」は個人の選択の範疇をはみ出ている。彼らが求めているのは共同体としての正解が「肉を食わない」になることである。
別にワクチンが毒だろうが薬だろうか、個々にそのリスクの判定をすればいいと思うのだが、それを声高に叫び、情報を拡散させずにはいられない、ある種の強い感染力がこのミームにはある。
今回は団塊ジュニアを中心とする50〜60代の真芯に響いている。ある社会運動が広がりを見せる時、その背景にあるのは金でも合理性でもなく、「リアリティのある共同幻想」がそこにあるかどうかである。特定の世代の心象風景に合致したイデオロギーが出現する時、その主張の合理性はさて置かれ、強い共感をもとに推進される。
心象風景を構成している要素としては、以下の2つの要素が挙げられる。
・集団接種の時代
・「公」が強かった時代 ⇔「公」の権威が失墜した時代
ワクチン接種というと、年配の世代に想像される光景は「学童集団接種」である。
BCGやはしか以外のインフルエンザのような感染症も、70年代、80年代の一時期には集団接種の対象であった。
幅広い予防接種が公衆衛生の範囲であり、公衆衛生とは文字通り「公」のものであった彼らにとって、現代で聞く「集団(希望者)接種」という言葉が表すイメージも、「公の」「強制力を持った」というニュアンスが無意識に伴ってしまうのも無理はない。したがって、現在論争されているワクチンの是非についても、これは個人の決定の問題ではなく、「共同体における正解」の問題なのだ。
また、医療についての「公」の権威が失墜した時代でもある。
サリドマイド訴訟(60〜70年代)、薬害エイズ(80年代)など、厚生省は医療不信につながる事件に深く関わり、これらのことが90年代以前に生まれた世代には深い衝撃として刻まれている。これら自体は非常に重大な事件であり、医療そのものに対する信用を決定的に失墜させた。社会として記憶に刻まなくてはならないことではあるが、この記憶の有無が根本的な医療不信の一因となっている。
結果として、ある程度年配になるほどに、
①医療は個人ではなく、共同体によって決定される
②「公」の医療は信用できない(既存の権威の否定)
という一見矛盾する軸を自己内部に抱えている。
口で言うところには反権威だが、行動様式は権威主義なのである。
このような構造では、当人の心の中の「権威」の座が空白となっている。
この座を、数々の代替医療・民間治療・新興宗教が虎視眈々と狙っている。
特に、7月時点での反ワクチン側の論拠は以下の2段構えになっている。
①ワクチンが「毒」であることを補強する軸
②流行しているものを情報操作とする、あるいは「自然免疫」で対応可能なものとする軸
西洋医学の傲慢だとか、製薬会社の陰謀だとか、様々な論法がある。
情報を拡散し、自由な意見をぶつけあい、議論を重ねることはいいことだと思っているので、①はどんどん盛んにやればいいと思っているのだが、危ないのは②の軸である。
マーケティングの基本はニーズを把握し、そこに合致したウォンツに叶う商品を売ることである。ニーズがなければ?ニーズを作ればいい。
ワクチンという選択肢を封じる、ついでに既存医療への不信感を煽る。
それでもやっぱりコロナは流行っている。
かからないためには?という不安が生じる。
この不安に対して、タイミングよく「自然免疫が上がる」アイテムが登場する。
物が売れる。商魂たくましいことである。
権威も、権威の不在も金になる。
現代社会が求めるところの、自己決定する個人などどこにも居ない。
エビデンスを読む、データを検証する、それだけコストのかかることをやって、最後の最後に決めるのは自分自身だ。
自分にとって、この世で一番権威のない人間は自分なので、そうなるとほとんどの場合、やはり自分では決められない。自分の決定が正しいと保証してくれる何かを必要としているのだ。
でも現代社会には神も仏もいないし、すべてを背負ってくれる国もない。
それでも人は権威を求める。
注目が身を滅ぼす
日本の大学には、ミスコンという悪習がある。
学祭のステージで、学内の美人を集めて優劣をつけるというイベントである。
申し訳程度にミスターコンというものも催されるが、あくまで主役はミスコンである。
母校の学祭にはそれまでミスコンがなかったのだが、どういうわけか俺の代からミスコンが毎年開催されることとなった。どうも同期に仕掛け人がいるらしい。
※訂正:もともとミスコンは存在していたとのこと(2021年07月07日)
ミスコンが悪習だというのは、風紀がどうとか、性の商業化がどうとか、そういう文脈で言いたいわけではない。
コンテストは人をコンテンツに変えてしまう。
コンテンツに変えられた人は、通常の人間よりも膨大な量の注目を浴びる。
そのことが成長や飛躍につながる人間もいれば、膨大な量の注目を処理しきれずに人格を壊してしまう人もいる。母校のミスコン出身者でも何人かそういう人物を見てきた。
その意味で、SNSの界隈でちょっとバズることも、コンテストで己の分に見合わない注目を浴びることも同じくらい害悪だ。
バスったことがないのでわからないが、バズるというのはめちゃくちゃ気持ちがいいらしい。
一度、SNSの大学界隈で、バケツプリンを作ってバズった男がいた。
たかだか3000人規模の界隈でバズった程度でも、報酬系をいじくり、人格を変容させるには十分だった。以降の彼は、バケツプリンの〇〇と名乗り、月に1度バケツプリンを作ってはツイッターにアップする男になってしまった。
完全に壊れている。
一方で、そういった注目がその後の成長に必ずしも悪いだけとは限らない。
大学界隈でのプチバズで顔出しに慣れたことでイベント開催者になった後輩もいるし、SNSでは少し有名なフェミニスト活動家になった後輩もいる。
言ってしまえば、もともと注目に慣れている人間はちょっとバズったくらいでは人格を持ち崩したりしない。
非常に残酷な事実だが、思春期から20代までずっと、可愛い子として生き続けてきた子は人格トラブルには無縁なのだ。街を歩けば声をかけられるし、知り合いの知り合いくらいからは常にアプローチを受けている子はあしらい方もわかるし、注目そのものに慣れている。
だから、注目度が上がることがそのままプラスになる。
反面、注目が害になるタイプの人格も存在している。
こういう部類は、人格の悪化しやすい側面が注目によって増幅されてしまう。
注目されていないと気がすまない。
元の人格と、「注目されている〇〇としての自分」との間に混同が起こる。
もともと乖離が激しいものを混同する時、プライベートでの振る舞いが決定的に崩れだす。
喫茶店で茶を飲んでいても、すべての客が自分に無関心な場合と、一定確率で〇〇さんですよね?と話しかけられる場合では、自然に己の振る舞いも変わってくる。
そうしているうちに素の自分と見られる自分の使い分けができなくなってきて、後者がプライベートを侵食し始めた時、自分の人格が、生活が、自分のものではなくなっていることに気づくのだ。
また、高い注目は良い話も持ってくるが、同時に悪いものも寄ってくる。
「魔が寄ってくる」というもので、接続しているネットワークが大きいと、1000人に1人のいい人に出会える確率も上がるが、ほとんど同じだけ1000人に1人クラスのどクズと遭遇する確率も上がるのだ。注目に慣れている人間の場合、注目の良い面を受け入れ、悪い面をあしらう術を心得ているが、この術を持たない場合、自分に対する注目そのものに身を滅ぼされることになる。
「注目が低い世界」と「注目が高い世界」では世界のルールが異なるので、低い世界での最適解が、高い世界では自滅を招く恐れがあるのだ。
低い世界では知り合いにはある程度愛想よくしておくのが正解だが、高い世界では、話しかけてくる相手がストーカーの可能性、ミーハーの可能性、あるいは自分の悪評を書き立てるインフルエンサーの可能性をよくよく考慮して振る舞わなくてはならない。
この問題はかつて芸能界固有のものだったが、SNSやYouTuberの出現により、対処のノウハウがない元・一般人も抱える問題となっていった。
不用意な注目はこのようにして、内側と外側から人格を壊していく。
あとに残るのは、人格がちょっと壊れた、不遜で少し歳を食った小綺麗なねーちゃんだけである。
ちなみに当のミスコン仕掛け人だが、まあ人それぞれいろんな人生があるよね、とすっかり知らん顔である。
究極かまってちゃん大戦
※この記事は『攻殻機動隊』シリーズのネタバレを含みます。
広告は日々進化している。
古代から広告は存在したが、時代に合わせて変化し、進化してきた。
広告は、販売者や生産者が人の意思決定に介入しようとする試みである。
商品Aだろうが商品Bだろうがどっちでも変わらない意志決定の場において商品Aが選ばれる確率を上げるための操作、それが広告の役割である。
広告は、ありとあらゆる手段で人の気をひこうとする。
べつにプロモーションに関係なくても、人の気が引ければなんでもありなのだ。
美女がビールを飲む広告がある。
おそらくだが、ビールの製造工程にはまったく関わっていない。
だが、ビール単体の画像よりも、美女とビールが写った画像にはより人を惹きつける力がある。だから広告には好ましいもの、望ましいものが積極的に取り入れられる。
かつては多くの人に見られるだけでよかった広告も、近年はさらに複雑に変化してきている。
ハゲにパーマの広告を見せたら無駄撃ちだ。
ハゲにはパーマをかける髪がない。
だから広告は、見せる相手を自ら選ぶように進化した。
おかげでハゲには髪が必要な広告は表示されなくなっていく。
ハゲにはハゲ向けの、OLにはOL向けの広告が表示される。
見てもらっても意思決定に影響がなければ意味がない。
効果のないものは淘汰され、効果のあるものは拡大される。
だから広告は、広告自身の効果(コンバージョン率と呼ばれる)を測定し、自らをより効果的なものにバージョンアップできるように進化した。
これらの変化は、個人が1人1台のデバイス(スマホ)を保有していることを背景に発展してきた。
時代に合わせて広告は変化する。
その時代特有の環境で、より効果的に人の気を引く方法を編み出していく。
まもなく、対応すべき大きな状況の変化が訪れる。
というより変化はすでに起こりつつある。
広告、テクノロジー、あるいは企業はこの状況に対応しなくてはならない。
リモート環境の進展、1人複数のデバイス持ちが当たり前の環境。
人の意識はよりユビキタス(いつでも、どこでも)な環境に近づきつつある。
このことは、人が何に注意を向けているかの捕捉がより難しくなることを意味する。
家にいるからといってその注意が家にあるとは限らない。仕事をしているかもしれない。
また、1つのデバイスにPVのログが残ったからといって、その広告を見ているとは限らない。仕事用のPCを開きながら別のディスプレイでアニメを見ているかもしれない。
この意味でテレビは大敗を喫した。
お茶の間でテレビをつけていても、その前に座っている人がツイッターにしか注意を向けていなければ、視聴率がどれだけ上がっても広告として本質的に機能しないからだ。
だから広告の次の進化の要件は、「人の意識がどこに向いているか?」の捕捉の精度を上げることだ。
テクノロジーが進歩するほど、広告が直面する問いはより洗練された、本質的な問いに近づいていく。人の注意はどのようにして向けられるのか、そしてどうやったら注意を引き、意志決定に介入できるのか。
この戦いはすでに始まっている。
覇権企業と呼ばれるような大企業は各家庭に格安のセンサーを送り込んでいる。
アレクサやシリといったデバイスが個人や家庭の音を集音し、学習を進める。
これらのデータは、既存のサービスの向上のためにも使用されるが、本当に覇権企業が狙っているのは「個人の注意が把握できる方法と環境」の整備である。
そしてそのような環境が整備された暁には、実現した企業は次の覇権企業となる。
今度こそ確実に国家を凌駕する企業が現れるだろう。
次の環境、すなわち、個人の意識の注意が捕捉できるようになった世界で、争われるのは「個人の注意のリソース」そのものになる。
今映画を見ているとか、どこに居て誰に会っているかということはあまり問題にはならない。マルチタスクが当たり前の世界で、個人の持つ「注意」の総量をどれだけ任意のコンテンツに割かせるかの勝負になる。
具体的にどんな手段が講じられるかは今のところSFの領分だ。
攻殻機動隊というSF作品の中で、個人の「注意」のリソースを独り占めしてしまう映画監督の話が出てくる。
詳細は省くが、攻殻機動隊の描く未来の世界ではほぼすべての人が脳をサイボーグ化し、現実世界で生きながらも、オンラインの世界に接続できる環境を生きている。
このオンライン環境はチャット、TV会議レベルから全感覚レベルまで深さを選べる。
だからこの時代の人々は、常に複数のレイヤーで接続し、マルチタスクを行っている。
現代でも、TV会議しながら他の人にチャットを打つことは可能だろう。
しかしときに、特定のコンテンツに全感覚を奪われ、元の身体に帰ってこれなくなることがある。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』12話ではそんなコンテンツの話が描かれる。
そのコンテンツとは、ある映画監督が築き上げた映画館である。
この映画館は現実には存在せず、仮想空間の中に存在している。
全感覚で没入できるVR映画館のようなもので、そこでは延々と主の映画監督が制作した映画が上映されている。
悠久の時の中で、映画館に迷い込んだ人々は映画を観て、待合室で映画の感想を語り合う。
あまりにその映画たちが魅力的すぎるばかりに、人々は映画館から去ることを忘れ、元の身体に意識を戻せなくなってしまう。文字通りの人事不省となってしまうわけだ。
この映画館は純粋に映画を作りたい想いでつくられたものであって、広告ではないが、おそらく、人の意識や注意について、この話に示唆されるところは大きい。
すべてがオンラインになり、真の意味でユビキタス社会が実現された時、最後の最後は「人の意識」「人の注意」という有限の資源を奪い合うゲームになるだろう。
かまってちゃんとかまってちゃんが繰り広げる壮絶な競争の中から、ほとんど魔術的に人を魅了する脅威的なコンテンツが生まれてくる。それは時に、現実世界を生きるよりも圧倒的に「リアリティ」のあるものかもしれない。
なぜ現実を生き、そこから自分は何を得るのかよくよく考えておくことは、数十年後に向けた大きな投資になるかもしれない。
Netflix 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX リンク↓
https://www.netflix.com/title/70213091?s=a&trkid=13747225&t=cp
できるとできないの境界線
現代人は能力を信仰している。
ほとんど崇拝しているといってもいい。
伝統的な価値観が廃れ、あらゆる権威が否定される時代において、何かができることは無条件にいいことだと信じられている。
能力は素敵だ。
そんな能力を他人に付与できる制度はきっともっと素敵だ。
だから現代人は教育もほとんど無条件に崇拝している。
能力と教育を崇拝しているくせに、いやむしろ崇拝しているからこそ、能力に対する認知は曖昧になっている。
人間は情報処理の大部分を、言語ではなく非言語の領域で行っている。
だから「できる」ことと、「できるを言語化している」は別物なのである。
できるやつほど、そのあたりは苦手なのだが、教育システムはできる人間に言語化能力を期待する。
ただし、実際のところ、人類は技能を教授するうまいやり方について、これといった答えをもっていない。
集合知の中に解はないので、個々人がそれぞれの原体験でもって能力観や教育観を形成している。能力信仰は深まる一方だが、能力形成についての知見は一向に深まることがない。
跳び箱10段を跳べるようになるにはどうしたらいいか?
それは、2段からはじめて1段ずつ増やしていけばいいんだよ。
こんな風に、文字通り1段ずつのステップが踏めるような技能であれば、100%とはいかなくても教授法の成功率は高いかもしれない。
ただし、世の中の技能やスキルのほとんどはこのように分解されていない。
実のところ、ここまで分解できていれば教えるのも容易で、人間どころかその能力を機械にインストールすることさえ可能になっているからだ。
ほとんどの能力・技能は、逆上がりのようなものだ。
できるとできないの間にステップはなく、明確な境界線が引かれている。
できる側の人間はできない側の人間に何も教授できない。
自転車に乗れると、乗れなかったことの頃が想像できなくなるのと同じように、できない状態を理解できなくなるし、乗れない側は、乗れる認知がわからないので境界線の超え方がわからない。
能力についてのこのような問題をどう処理するかが、組織ごとの「天才」「秀才」「凡人」の分類を分かち、新人を選別するか、それとも訓練するかの違いになってくる。
時々、技能獲得をするにあたって、「逆上がり」のような認知で取り組んでいる人を見かける。ここに現状認識はなく、内省もない。自己認識が曖昧なので、ステップ感などありはしない。
ただひたすらに、「できる」と「できない」の境界線を超える瞬間を目指して、その再現を目指して繰り返す。誰ができる側かは宇宙開闢の時点で決まっているから、数千回の試行の中で自分ができる側であることを証明するだけ、と言わんばかりの態度である。
そして晴れて「できる側」になった人間は、できない側を選別するか、普通できるという態度を取るようになる。
天は二物を与えず、プレイヤーとしての能力と、教官の能力を兼ねるものは稀有である。
それら2つは元来別の能力であり、また、何かを非言語的に理解しているということが、特に言語的な理解を阻害する場合があるからだ。
1人の教官は1000人のプレイヤーに匹敵する。
また、幸運にもプログラマの能力も兼ね備えていれば、全世界の端末にこの知見を配信することも可能になる。
残念ながらそれは稀有に稀有を掛け算した事象であり、そのへんに転がっている才能ではない。
書き飽きたのでこのへんで。
お察しの通り私は逆上がりができなかったし、できないし、これからもできるつもりはない。
SEと営業は一生わかりあえない
社会で生きていると、無数の行き違いがある。
言葉という未熟なツールを使っている以上は仕方のないことなのだが、伝えたいメッセージが受け手に正しく伝わることは滅多にない。
こういうことを防止するために、社会人は多くの時間を復唱とかリマインドとかサマライズに使っているのだが、それでも絶対に行き違いは発生するものなのだ。
シチュエーションは無限にあるが、とにかく伝わらないのであればコミュニケーションのリトライを試みなければ仕事が前に進まない。
さすがに前に送ったメッセージを再送するとメンヘラか壊れたロボットだと思われるので、「伝わっていない」ことを双方ともに認識する必要がある。
こういう場合、業務の性質や組織の体質によってリトライのスタンスが変わってくる。
コミュニケーションのエラーの責がどこにあるかで大きく分かれる。
もっというと、「どこにあると思っているか」で分けられる。
受信側に問題があると思っているタイプと、送信側に問題があると思っているタイプだ。
前者、つまり受信側に問題があると思っているタイプは伝統的な学校の授業のイメージだ。
教壇に立っている教師からメッセージが発信される。
このメッセージはほとんどの場合、正しい(ということになっている)。
だから生徒側(受信側)の理解に問題があった場合、受信側の能力か態度に問題があったということになる。
コミュニケーションにおいて、発信側が受信側より圧倒的に「えらい」。
質問する場合も、「(私が)よく理解できていないのですが…」「(私が)聞き逃していたら申し訳ないのですが…」という前置きが自然になされる。
後者、送信側に問題があると思っているタイプは…機械との対話、たとえばプログラミングのイメージである。
プログラムは思ったとおりには動かない、書いたとおりに動く。
真剣に書こうが怠惰に書こうが、エラーはエラーである。
環境にもよるが、「エラーですよ」しか教えてくれないこともある。
動くか動かないか、無理かそうでないかがはっきりしているだけに、ファジーさが削られている。
こういうスタンスは対人コミュニケーションにもある程度持ち込まれる。
今受け取ったメッセージを自分は正しく受け取れなかった。
受信側の問題もないとは言えないが、受け取れなかったというリザルトは相手に返さなくてはならない。だからこう言う。
「ちょっと何を言っているかわからないです。」
これを受けて、ははあ、なんかエラーを吐いたぞ。言い方の問題かな?それとも専門用語が多かったかな?というような試行錯誤をするのは送信側の仕事である。
また、コミュニケーションにおいて、不明瞭な事柄を残したままにすることは嫌う。
したがって、この文化圏の会話は妙にズケズケした物言いになりやすい。
前者と後者のスタンスは、どちらがいいとも悪いとも言えない。
扱う事柄の性質によって、コミュニケーションの様式が変化しているだけだ。
体育会系にありがちな前者のスタンスも、一概に悪いとは言えない。
客先や目上の人間が気持ちよくコミュニケーションできるように特化したスタイルであり、対外交渉には向くスタイルである。
また交渉事では、物事をグレーゾーンのままにしておいたほうがいい場合もある。
受信側に責を置くコミュニケーション文化の内部にいると、この文化に「飼いならされて」いく。えらくなるほどに、この文化を変える気がどんどんなくなっていくのだ。
コミュニケーションの階層を上がっていくほど、出世するほどコミュニケーションがどんどんファジーに、見方を変えれば楽になっていくからだ。
えらければえらいほど、受信側がこちらの言いたいことを勝手に補完してくれるからだ。
日本語ではこの補完が過剰に機能することを「忖度」という。
あまりにこの機能に頼りすぎると、人間がだんだんアホになっていくという欠陥もある。
部下がなんでも補完してくれるので、名詞が全部「アレ」になったり、述部が全部「いい感じにやっといて」になる営業あがりのえらいさんというのも珍しくない。
いろいろ書いたが、結論は1つしかない。
営業とSEは一生わかりあえない。それだけだ。
雑巾絞り
表現の根底には葛藤が存在する。
葛藤なくしては表現は生まれてこない、そこにある必要さえない。
この場合の葛藤は、社会の中における自分と、自分が自覚している自分とのギャップや自己矛盾を指す。
移民文学や越境文学は、社会の中の自分と、自分自身が人生の総体で受け止めてきたルーツやアイデンティティとの間にある、深い深い溝から生まれてくる。
移民社会においては、移民が社会に受け入れられる(二世、三世になるにつれて現地社会への順応度が高まる)につれ、このような自己矛盾が解消され、移民文学のムーブメントが沈静化していく…というようなことが起こる。
現代は表現者に対して、表現そのものに対して主体的であることを求める。
この論法では、突き詰めていくと「表現のための表現」でさえも主体的だからいいことになる。この場合、「表現している自分」こそが自分自身だというある種の強迫観念に基づいて表現に取り組むことになる。
中身のないやつはどう絞り出したって何も出てきやしない。
「表現している自分こそが自分なんだ」というあり方は、それはそれで葛藤なのかもしれない。ほんとうはなにもない自分から必死で目を逸らし続けた結果、ひとかどの何者かになれるのならば、それはそれで立派なのかもしれない。
こういう話は創作に限ったことではない。
政治的・社会的な活動だって立派な自己表現だが、こういった活動はかなりの確率で手段と目的が入れ替わってしまう。
何がしたいのかイマイチはっきりしない意識高い系の学生。
往々にして、彼らは高校生くらいまではそれなりにはっきりしたアイデンティティを持っている。急に、なぜかしら大学生になってマルチにハマったり、社会的に意味のある(とされている)表現にハマったりする。
学校社会は彼らに居場所やアイデンティティを与えてくれる。
社会的によしとされる活動をしていれば、自分が何者なのかを自ら考える必要がない。
テストでも、学校社会の中の優等生ヒエラルキーでも、そのマウントの体系に居座っている限りにおいて、彼らは安泰である。
ある段階で、学校社会から放り出される。
優等生の問題点として、「頭でっかちなこと」とか「勉強ばっかりしていること」とかよく言われるが、全部的外れだ。
本当の問題は、自分の幸せを自分で考えられない頭を数年かけて彼らが作ってしまったことにある。
彼らの罪は2つある。
1つは、マウントの体系に囚われ、ヒエラルキーの中の位置づけで優越感を覚える悪癖をつけたこと。
もう1つは、自分自身の価値判断の基準を、無責任な他人に委ねてしまったことだ。
最初の罪は、人間なら程度の差こそあれ誰でもやっていることなので、仕方がないものではある。
自分にとって有利な軸で他人と自分との間に優劣の差を生み出す心の営みである。
生者と死者、富める者と貧しいもの、社会的地位の上下…。
資本主義経済はこのような心の動きを原動力として動いているのでなかなかこれを真っ向から否定することは難しい。
もう1つの方は、無責任な他人に自分の価値判断を委ねたことだ。
小集団の中のヒエラルキーや、優劣の基準というものはその中での基準に過ぎない。
永久にその集団の中で生きるのであれば問題はないが、現代社会においてそれはほとんど稀有な事象である。
学校社会などというものは、一生居続ける組織ではない。
ましてや、そんなおままごとのような社会はそこを出た卒業生の行く末に対して、何の責任も負ってはいない。
そんな無責任な組織からの無責任な承認は、容易に人をダメにする。
お利口にしていればちやほやされるなら、他者からの承認に敏感な青少年は喜んでお利口になろうとする。そうして演じてお利口になっているうちはいいが、無意識のうちに毒が回り、お利口でなければいられない身体にされてしまう。
そこまでしてできあがったお利口ジャンキーたちは、突然承認を得る手段を失い、戸惑う。
戸惑い、狼狽え、あるものは他人にマウントを繰り返し、あるものは「社会的に有意義な活動」とやらにハマる。
表現そのものを目的にした表現は猿の自慰行為と大差がない。
今まで得られていた快感を再び得るために、押しても報われないボタンを無為に押し続ける。
繰り返すが、葛藤なき表現は表現ではない。
真剣に社会や他者と向き合った中で気づいた自己矛盾こそが、その人の人生の総体を賭して勝ち得た葛藤であり、表現の源だ。
空っぽなやつはどう絞ったって何も出てきやしない。