めふぁにっき

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注目が身を滅ぼす

日本の大学には、ミスコンという悪習がある。

学祭のステージで、学内の美人を集めて優劣をつけるというイベントである。

申し訳程度にミスターコンというものも催されるが、あくまで主役はミスコンである。


母校の学祭にはそれまでミスコンがなかったのだが、どういうわけか俺の代からミスコンが毎年開催されることとなった。どうも同期に仕掛け人がいるらしい。

※訂正:もともとミスコンは存在していたとのこと(2021年07月07日)

 

ミスコンが悪習だというのは、風紀がどうとか、性の商業化がどうとか、そういう文脈で言いたいわけではない。

コンテストは人をコンテンツに変えてしまう。

コンテンツに変えられた人は、通常の人間よりも膨大な量の注目を浴びる。

そのことが成長や飛躍につながる人間もいれば、膨大な量の注目を処理しきれずに人格を壊してしまう人もいる。母校のミスコン出身者でも何人かそういう人物を見てきた。


その意味で、SNSの界隈でちょっとバズることも、コンテストで己の分に見合わない注目を浴びることも同じくらい害悪だ。

バスったことがないのでわからないが、バズるというのはめちゃくちゃ気持ちがいいらしい。

一度、SNSの大学界隈で、バケツプリンを作ってバズった男がいた。

たかだか3000人規模の界隈でバズった程度でも、報酬系をいじくり、人格を変容させるには十分だった。以降の彼は、バケツプリンの〇〇と名乗り、月に1度バケツプリンを作ってはツイッターにアップする男になってしまった。


完全に壊れている。


一方で、そういった注目がその後の成長に必ずしも悪いだけとは限らない。

大学界隈でのプチバズで顔出しに慣れたことでイベント開催者になった後輩もいるし、SNSでは少し有名なフェミニスト活動家になった後輩もいる。


言ってしまえば、もともと注目に慣れている人間はちょっとバズったくらいでは人格を持ち崩したりしない。

非常に残酷な事実だが、思春期から20代までずっと、可愛い子として生き続けてきた子は人格トラブルには無縁なのだ。街を歩けば声をかけられるし、知り合いの知り合いくらいからは常にアプローチを受けている子はあしらい方もわかるし、注目そのものに慣れている。

だから、注目度が上がることがそのままプラスになる。


反面、注目が害になるタイプの人格も存在している。

こういう部類は、人格の悪化しやすい側面が注目によって増幅されてしまう。

注目されていないと気がすまない。

元の人格と、「注目されている〇〇としての自分」との間に混同が起こる。

もともと乖離が激しいものを混同する時、プライベートでの振る舞いが決定的に崩れだす。

茶店で茶を飲んでいても、すべての客が自分に無関心な場合と、一定確率で〇〇さんですよね?と話しかけられる場合では、自然に己の振る舞いも変わってくる。

そうしているうちに素の自分と見られる自分の使い分けができなくなってきて、後者がプライベートを侵食し始めた時、自分の人格が、生活が、自分のものではなくなっていることに気づくのだ。


また、高い注目は良い話も持ってくるが、同時に悪いものも寄ってくる。

「魔が寄ってくる」というもので、接続しているネットワークが大きいと、1000人に1人のいい人に出会える確率も上がるが、ほとんど同じだけ1000人に1人クラスのどクズと遭遇する確率も上がるのだ。注目に慣れている人間の場合、注目の良い面を受け入れ、悪い面をあしらう術を心得ているが、この術を持たない場合、自分に対する注目そのものに身を滅ぼされることになる。

「注目が低い世界」と「注目が高い世界」では世界のルールが異なるので、低い世界での最適解が、高い世界では自滅を招く恐れがあるのだ。

低い世界では知り合いにはある程度愛想よくしておくのが正解だが、高い世界では、話しかけてくる相手がストーカーの可能性、ミーハーの可能性、あるいは自分の悪評を書き立てるインフルエンサーの可能性をよくよく考慮して振る舞わなくてはならない。

この問題はかつて芸能界固有のものだったが、SNSやYouTuberの出現により、対処のノウハウがない元・一般人も抱える問題となっていった。


不用意な注目はこのようにして、内側と外側から人格を壊していく。

あとに残るのは、人格がちょっと壊れた、不遜で少し歳を食った小綺麗なねーちゃんだけである。


ちなみに当のミスコン仕掛け人だが、まあ人それぞれいろんな人生があるよね、とすっかり知らん顔である。