めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

それでも人は権威を求める

本記事は記録のため、筆者が感じたことを好き勝手書いているものである。

 

2021年7月。

『コロナ渦』が始まってからおおよそ2年目に突入した。

打開策となるワクチンがリリースされ、希望者向けの集団接種が開始された。

6月下旬から7月にかけて、反ワクチン派の情報拡散が相次いだ。

実はこれ以前から「遺伝子組み換え人間にされる」「マイクロチップを埋められる」「磁性がついて金属がくっつく」「5Gに接続される」等々、様々な流言はあった。

しかし希望者向けの接種が始まったことで、国民全体が接種するか、しないかの決断に直面し、リアリティが高まったようだ。


接種の是非は、私個人としては個人の決定に任せるという立場である。

自身の身体に関する決定権は個々人に委ねられるのが妥当だろう。

そうはいっても今後、接種については、するにしてもしないにしても、職場や公の場での同調圧力が大なり小なり発生することは容易に想像がつく。

だがそれらの同調圧力を加味してもなお、個人の決定に委ねるのが現代社会の基本的なスタンスだと私は思う。

(集団免疫の形成には多数の接種が必要であること、ワクチンが従来型ではないこと、補償について曖昧であることなど議論のポイントは数多くあるが、個々の身体のリスクは個々が考えるべきという立場である)


さて、今起こっている反ワクチンのムーブメントだが、ここにはいくつかの特徴がある。

彼らは個人の選択ではなく、共同体としての正解を決めたがる。

ベジタリアンで喩えるなら、「俺は野菜しか食わない」は個人の選択だが、「お前もお前も野菜しか食うべきではない。この社会は野菜以外食うべきではない」は個人の選択の範疇をはみ出ている。彼らが求めているのは共同体としての正解が「肉を食わない」になることである。


別にワクチンが毒だろうが薬だろうか、個々にそのリスクの判定をすればいいと思うのだが、それを声高に叫び、情報を拡散させずにはいられない、ある種の強い感染力がこのミームにはある。


今回は団塊ジュニアを中心とする50〜60代の真芯に響いている。ある社会運動が広がりを見せる時、その背景にあるのは金でも合理性でもなく、「リアリティのある共同幻想」がそこにあるかどうかである。特定の世代の心象風景に合致したイデオロギーが出現する時、その主張の合理性はさて置かれ、強い共感をもとに推進される。


心象風景を構成している要素としては、以下の2つの要素が挙げられる。

・集団接種の時代

・「公」が強かった時代 ⇔「公」の権威が失墜した時代


ワクチン接種というと、年配の世代に想像される光景は「学童集団接種」である。

BCGやはしか以外のインフルエンザのような感染症も、70年代、80年代の一時期には集団接種の対象であった。

幅広い予防接種が公衆衛生の範囲であり、公衆衛生とは文字通り「公」のものであった彼らにとって、現代で聞く「集団(希望者)接種」という言葉が表すイメージも、「公の」「強制力を持った」というニュアンスが無意識に伴ってしまうのも無理はない。したがって、現在論争されているワクチンの是非についても、これは個人の決定の問題ではなく、「共同体における正解」の問題なのだ。

また、医療についての「公」の権威が失墜した時代でもある。

サリドマイド訴訟(60〜70年代)、薬害エイズ(80年代)など、厚生省は医療不信につながる事件に深く関わり、これらのことが90年代以前に生まれた世代には深い衝撃として刻まれている。これら自体は非常に重大な事件であり、医療そのものに対する信用を決定的に失墜させた。社会として記憶に刻まなくてはならないことではあるが、この記憶の有無が根本的な医療不信の一因となっている。


結果として、ある程度年配になるほどに、

①医療は個人ではなく、共同体によって決定される 

②「公」の医療は信用できない(既存の権威の否定)

という一見矛盾する軸を自己内部に抱えている。


口で言うところには反権威だが、行動様式は権威主義なのである。

このような構造では、当人の心の中の「権威」の座が空白となっている。

この座を、数々の代替医療・民間治療・新興宗教が虎視眈々と狙っている。


特に、7月時点での反ワクチン側の論拠は以下の2段構えになっている。

①ワクチンが「毒」であることを補強する軸

②流行しているものを情報操作とする、あるいは「自然免疫」で対応可能なものとする軸

西洋医学の傲慢だとか、製薬会社の陰謀だとか、様々な論法がある。

情報を拡散し、自由な意見をぶつけあい、議論を重ねることはいいことだと思っているので、①はどんどん盛んにやればいいと思っているのだが、危ないのは②の軸である。


マーケティングの基本はニーズを把握し、そこに合致したウォンツに叶う商品を売ることである。ニーズがなければ?ニーズを作ればいい。


ワクチンという選択肢を封じる、ついでに既存医療への不信感を煽る。

それでもやっぱりコロナは流行っている。

かからないためには?という不安が生じる。

この不安に対して、タイミングよく「自然免疫が上がる」アイテムが登場する。

物が売れる。商魂たくましいことである。


権威も、権威の不在も金になる。

現代社会が求めるところの、自己決定する個人などどこにも居ない。

エビデンスを読む、データを検証する、それだけコストのかかることをやって、最後の最後に決めるのは自分自身だ。

自分にとって、この世で一番権威のない人間は自分なので、そうなるとほとんどの場合、やはり自分では決められない。自分の決定が正しいと保証してくれる何かを必要としているのだ。

でも現代社会には神も仏もいないし、すべてを背負ってくれる国もない。


それでも人は権威を求める。