めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

イケメンの皮剥いで被りたい

 

めふぁにっきです。

 

ひさびさに街場を歩くと、いろんな人間が歩いております。

なんか、この雑踏の中じゃ誰も俺のこと知らないんだよなあと思うと

なんだか自分じゃない誰かになれる気がしてします。

 

都市の魔力というか魅力はきっとそのへんにあるんでしょうな。

 

イギリスの小噺をひとつ。

 

とある名のあるジェントリが、彼の地元でボロボロの格好をしているので、

「どうしてあなたのような名士がそんな格好をしているんです?」

と尋ねたところ、

「ハハハ、ここでは私が何者か誰もが知っていますからね。」

 

一方、同じジェントリがロンドンでもボロを着ているので、またわけを尋ねたところ

「ハハハ、ここでは私が何者かなんて誰も知りませんからね」

と答えたとさ。

 

ロンドンは、たいてい顔見知りの中世都市とは違って、

人が多すぎて誰が誰やらわからないので、

貴族でなくても貴族の格好をするようになってしまったとか。

 

 

身分制がなくなり、大量消費社会が実現するにつれて、

ますます現代人にとってのガワの重要性は高まってきます。

もうブランドをつけていればシグナルになる時代でもないし。

 

ああめんどうくさい。

もはや人間の形で人に会うのなんかやめたい。

俺自身の素体がブ男だとかこの際どうでもいい。

こんな想いをするくらいなら

いっそ正四面体のポリゴンかなにかにでもなってしまいたい。

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▲「めふぁにっきです。今回は正四面体になってみました。」

 

ただ自分じゃない誰かに化けるのは好きなんですよね。

どなたか正四面体に化ける方法があれば教えてください。

 

正四面体になったボクが

山手線の改札に引っかかっているところを見かけたら助けてあげてください。

 

 

(書いてて思い出したけど『おやすみプンプン』に主人公が正四面体になる描写あったな…)

いやでもなるなら立方体は嫌でしょ。円柱も違うでしょ。球体も違うし。

正八面体は気になるけど使徒ラミエルじゃん…。

だいたいよさげな形はどっかで使われてるもんなんだよ。

オタクハウスをおったてたい

 

めふぁにっきです。

 

海外旅行から帰ってきてカネがねえ

酒の飲み過ぎで体力がねえ

二日酔い抱えて目が覚めたら

ナニも悪いことしてないのにケツと内股が筋肉痛という3重苦の中生きてます。

 

初の海外旅行の話はどこかでまた書きます。

 

 

最近断捨離断捨離ィ!!つって服ばかり捨てていたら

とうとう着られる服がなくなりました。

特に下半身デブ化が止まらないのでなおのこと着る服がない…

年末お洋服予算確保しますので誰か選んで…

 

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▲原因

 

オタクハウス作りたいな~~という願望が最近ふつふつ湧いてきます。

男子寮時代、みんなで朝から晩までわいのわいの生活するのが楽しかったので、

そういう生活ってオトナになったらできないもんなの??おかしくない?

と不満に思いながら生活してます。

 

一応さらっと調べてみたらギークハウスとか出てきたけど…

どんななのかな???一回住んでみようかな??

もくもく会」(プログラマが会議室とか借りて作業する会)の住居版なのかな…?

 

結構わくわくするコンテンツなのでちょっと調べてみます。

 

 うーん書くことがない

アタマがカラダに同期してません(『私はすでに死んでいる』)

 

めふぁにっきです。

 

移動中の読書が習慣になってまして

『私はすでに死んでいる』という世紀末なタイトルの本を今日読み終わりました。あべし。

 

私が「私」だと思っているもの。

私が私であるという実感。

あまりに当たり前すぎて普段ことさらに考えもしない、自分が自分であるという「感覚」は一体どこから生まれてくるのか?

その問いを突き詰めていくと、1つの仮説が浮かび上がってくる。

 

脳は世界を認知する時に受送信デバイスである身体の動きを予測して、脳が捉える「現実」と身体の動作とをシンクロさせようとする。脳のこのはたらきが「自分」という感覚を作り出している。

ではこのはたらき(=システム)が何らかの形で「バグ」を起こす時、人間が「自分」を捉える心のはたらきはどう「バグ」を起こすのか?

 

というようなお話です。

事例や示唆が本当に多くて、何回か読みたい一冊です。

 

最近フォロワーのつぶやきやいくつかのやりとりの中で、

「そもそも人間は自分の中に自他を区別できる人格をいくつか抱えたりできるものなのか?」

とか

「まず自他ってどうやって区別されてるんだ?」

というようなヘンな疑問が湧いたので本屋で見かけて読んでみました。

 

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

 

 

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▲ああ^〜 あまあまで脳が喜んでるんじゃあ

 

最近フラっとパスタ屋に入って

「どMパスタ」なるパスタを頼んだんです。

 

辛党を自認する男として一口目から辛いとは喚かないだけのプライドはあります。

「ふっ…まあほどほどの辛さでちょうどいいネ」

くらい気取ってたんですが

 

どMパスタやべぇっすわ

誰がこんなもん食うんだってくらい辛い。

最後涙目になりながら完食しました。

 

激辛ってのは脳内麻薬の分泌を誘発するらしいですな。

あとでどうにも頭がふわふわしてしまって、完全にラリってました。

 

自分というものは一貫して連続して生きているものだとみんな信じているけれど、

満腹で苦しくてアブラまみれで二郎食ってる自分と

家に帰って脳内麻薬でふわふわしてる自分と

後日「オススメのラーメン屋があるんだよ、こんど行こうな?」と他人を沼に誘い込もうとしている自分は、全部一貫してると見せかけて実はバラバラの自分なのです。

 

二郎食ってる苦しい自分→経験する自己

ラリってる自分→経験する自己

後日、二郎に行く体験を「苦しいけれど素晴らしい体験」というストーリーに再構築する自分

→物語る自分

 

経験する自分と物語る自分は別物なので

どんなに途中で経験する自分が苦しんでも

最後に脳内麻薬が出る体験をしてしまうと、物語る自分は「あれは苦しかったけれど、結果良いものだったなぁ」と記憶を良い方向に再構築してしまうそうな。

 

ブラック部活・企業とかも

「センパイにどつかれまくったけど!最後の大会後みんなで抱き合って泣いて最高の経験だったっす!!」みたいに、うまいこと「物語る自己」のストーリーを良い方向にコントールすることで間の過程を肯定したがる気がします。

 

小説家のO.ヘンリも書いてるけど、DVダンナが嫁ボコボコに殴った後はやたら優しくなってなんでも買ってくれちゃうもんね!

 

 

 

そんなわけで私も走った後はごほうびにお肉を食べるわけですが……

 

ふと考えたら

これって要は「物語る自分」に餌付けしてるだけなのでは??

 

一時期、OLが「自分へのご褒美にスイーツ❤︎」してるのをバカにする風潮あったけれど、あれもあれで、ちゃんと頑張った後にスイーツ食べてるのなら実はれっきとした自己育成の過程なのでは??

 

参考:

TED(ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎)

https://www.ted.com/talks/daniel_kahneman_the_riddle_of_experience_vs_memory/transcript?language=ja

 

Oヘンリー『ハーレムの悲劇』

http://www1.bbiq.jp/kareha/trans/html/harlem_tragedy,_a.html

秋の夜長をひた走れオタク

 

めふぁにっきです。

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▲人類が生んだ神秘の立方体、汝の名は糖質。

 

だんだん心が折れそうになってきたのでちょっとランニングをしてきました。

 

夏場走ると「暑い!!」と「痛い!!」が交互にきて、

しまいには汗で背中が濡れて蒸れてシャツが張り付いて気持ち悪くなってしまい、

「暑い!」「痛い!」「息苦しい!」「きもちわるい!」

のオンパレードになっちまいます。

 

この季節は走るのには最高です。

「暑い!」と「きもちわるい!」が気温に排除されるので

純粋に「痛い!」「息苦しい!」だけを楽しめます。

だんたん走っているうちに目がトロンとしてきて、気持ちよくなります。

 

この時期、みんな考えることは同じみたいで、

ランニングスポットに行けばそこそこの人が走ってます。

 

ウォーキングの老婦人、デブ、体育会系おにいちゃん、タンクトップのおねえさん、デブ、デブ…

みんな走る痛みを楽しんでいるんだなあと思うとワクワクしてきます。

結構普段から走り込んでいるであろうお姉さんとか

スタイルが素敵で、まとめた髪がリズムカルに揺れて

いつまでも後ろを走っていたいんですが、運動不足のオタクの体力ではどんどんと差をつけられ、いつのまにか後ろに体育会系おにいさんの鼻息が迫ってきます。

 

 

 日が短くなってきて、朝目が冷めたらまっさきに思い浮かぶクソ寒さに追われ、

この時期の社畜はメンタルがだんだん余裕なくなってきます。

人間って自分で思っている以上に自分の思い込みの中で生きてしまいがちなので、

頭のストレージはなんやよくわからないモヤモヤでパツンパツンになってます。

 

そんな社畜ともやもやに襲われた大学生に朗報なんですが、走りましょう。

 

・自分のペースよりきもち早めに走ること

・ゴールが決まっているコースを走ること

・足のはやい美人を見かけたらとにかくガン見して追いかけること

この3点さえ守っていれば最高の秋ランニングができます。

 

「ころしゅ」「つらみ」「かえりたい」「休みたい」

等々の泣き言は頭から消え去り、

代わりに

「おねえさんきれいやなあ」「足痛い」「ゴールまだかな」「あ、抜かされた」

以外のことは何も考えられなくなります。

 

頭のストレージに溜まったゴミデータを処理して、スッキリして帰宅しましょう。

 

ちなみにこの時に注意しなくてはならないのですが、

帰宅時はオンラインであれ、オフラインであれ、異性との接触を避けてください。

やたら気持ちよくなっているので、この状態で異性と不用意に接触すると、

ふいに恋に落ちたり、脳が誤学習を起こして

「あ!この人と接触するときもちよくなるぞ!!」

と変な刷り込みを起こしたりします。

 

ただし、お勤めの諜報機関からの任務で、どうしてもタイプじゃない女性に接触して偽装結婚しなきゃいけない人とかはぜひ応用してみてください。

 

 

秘宝館デートがしてみたい(東山彰良『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』)

 

めふぁにっきです。

 

ふと、この前福岡の書店に立ち寄ったら

やたらめったら長いタイトルの本があったのでついつい買ってしまいました。

 

 

 

http://hon-hikidashi.jp/enjoy/42069/

▲ほんのひきだし 東山彰良さんインタビュー記事

 

ものすごく生々しく福岡の若者が描かれていて、そうそうこれこれ!!こういう生々しいの読みたかったんだよ!って感じでした。

 

生々しいといっても、

モテない男の子ならいやというほど知ってる現実をコミカルに描き、

モテねぇのも利用されんのも、どうしようもねぇもんは、どうしようもねぇんだよ!!という潔い諦めというか「現実への敗北宣言」をしている感じ。

重くも鬱でもなく、一汗かいたような心地よい汚さ。

 

Angel beats!』を観て予備校に入り、

四畳半神話大系』を観てとりあえず大学に入ったものの、とにかく大学生というのは快楽に溺れる猿のように滑稽で欲望にまっすぐで汚くて、この物悲しい生き物を描いてる作品はないものかと思っていたらまさにこれでした。

ちょっと作中の若者ブランド品を持ちすぎてて音楽映画に詳しすぎる感じはするけど。

 

本を閉じた時に

「うっわ…ロクな女が出てこねぇわ…」

という感想が出てきて、

それと同時に

ロクでもないのは女の子の方なのか?

ひょっとしてそのロクでもない生き物をモノにしようと四苦八苦してるオスの方がよほど滑稽なんじゃないのか??

と考えさせられます。

 

私の大学4年間は

どうして女の子は男の子にそんなひどいことをできるの??

ひどいよ!反省してよ!同じ人間とは思えないよ!

と叫び続け、男の子を誑かす悪い女の子を口汚く罵り、糾弾し、隙あらば制裁しようとすることに費やされてしまいました。

 

でも今大学生の日常を突き放して見てみると、サカりのついた年頃のオスどもがキャンパスなんてところに押し込められて、暇にまかせて年中女の子のことばっかり考えたり、頼まれもしないのに勘違いして惚れた腫れたしてるの

は実はものすごくコミカルな絵面なんじゃないか?と思ってます。

 

 

日本有数の好色文化のど真ん中で(偏見と言われようとも、日本でも稀に見るヤリチン文化だと声を大にして言います。)モテ男の陰で、性の悦びに食いっぱぐれてる若いオスの滑稽さと、そんなオスの思惑に関係なくしたたかに打算的に自由に生きる"女の子"の性と聖がぐちゃぐちゃに混ざり合ったイメージとのコントラストが、現実の辛さと気持ち悪さを通り越して痛快です。

 

さて、これで福岡舞台の青春系作品は「ドグラ・マグラ」「博多豚骨ラーメンズ」「セカチュー(諸説あり)」「女の子の(略)経っていた。」となったわけですな。

 

最近のきょうだいの会話

めふぁ「東京の大学生になりたかった」

妹者「なればよくない?」

めふぁ「あのね、お兄ちゃんは東京の大学生になってね、なんかサークルで作った彼女と夏休みに熱海とか箱根とか軽井沢とかそれっぽいところに旅行にいきたい人生だった」

妹者「」

 

あの、熱海の秘宝館っての行ってみたいんですよ、女の人と。

女の人とってのが大事なんですよ。

一人で行ったらなんか辛そうじゃないですか。一人ディズニーの方がまだいけるわ。

 

平成に花開く、男やもめの独り寝文化

 

めふぁにっきです。

 

オナニーの話しかしません。

 

TENGA×スクー

『オトナの性的義務教育』

https://twitter.com/nishino_fumi/status/1053275658187505664

 

なんか帰宅してTwitter開いたら

TENGA社さんが「オナニーはなぜうしろめたいのか」というめちゃくちゃおもしろそうなタイトルで東大の赤川学先生と講座を開いていたので夢中で見てしまいました。

 

高校3年生の時にテレビ東京の「ジョージ・ポットマンの平成史」という、BBCのドキュメンタリー風でおふざけ半分、真面目半分で日本のサブカルチャー史を紹介する番組を見てたので、こういうタイトルにはめっぽう弱いのです。

ジョージ・ポットマンの平成史 - Wikipedia

 

 

そもそもオナニーオナニーっていうけれど、

「オナニー」って言葉自体、語源が罪のニュアンスを含むもので、

昔々、ユダヤ人のオナンくんが、

「兄貴が子をなさずに死んだら、弟が兄嫁と交わって兄の子を遺すべし」

という習慣(レビレート婚というらしい)に従って

未亡人となった兄嫁といたしていたところ、

(これ、兄嫁孕ませても俺の子にはならないとかもったいなくね…?!)

という謎の省エネ思考を発揮していわゆるソトダシをしたところ、

「快楽のみのために性行為をするべからず」という神の怒りに触れて死んだ。

…みたいな話が語源らしく、もともと宗教的タブーを含む言葉とのこと。

 そんなわけでキリスト教国ではタブーの一つでもあり、日本も西洋化の流れの中で

「青少年の教育にオナニーは害悪である!!!」という風潮になり、

当時の知識人も日記の中で、少年期に自慰を覚えてしまい、

「最低だ、俺って…」と罪悪感を覚えたとか。

とにかく現代日本人の自慰行為に対する意識は複雑怪奇なのだ。

 

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▲突然の麻婆豆腐

 

今回の講座でおもしろいとおもったのは、

現代社会では、オナニーは自分が何者かを規定する行為になりつつある」

という話。

 

80年代前後は、(特に男性にとって)オナニーは「セックスの代償行為」であり、

「オナニーをしている」こと自体が「相手が居らず独り寝」をしていることの裏返しという意識が強かった。

だからそもそも男性がオナニーをしているという表明自体が、

「異性を獲得できない劣ったオスである」というメタメッセージになった。

 

平成の御代も終わりに近づくと、ネットに性情報は溢れてるし、

一昔前ならとても「普通じゃない」性癖をもっていても、

デジタル世界からオカズを手に入れて、

夜な夜な繰り返し自分のセクシャリティを確認する時間になった。

 

それまでの世界では、セクシャリティは社会の共有概念で、

自分を規定するものではなかったし、

そういう意味で誰もが本当の意味で自分の身体を自分で「所有」することはなかった。

 

世間の中で結婚し、契り、子を生み育む役割としての男女から

若者が解放されるほどに、

他者とのコミュニケーションとしてのセックスと 

セックスの「代償」「補助」「練習」行為だったオナニーが切り離され、

「そっか!俺はロリ巨乳が好きなんやな!」と自覚する時間が増えた…。

ほんまかいな。 

 

 上の世代(80年代生以上)と話していて、時々違和感を感じるのは、

あくまでもオナニーは「本番」に対する補助的かつ緊急的措置であって

 重要なのは生身の人間と交わることなんだ…!

みたいな考えが透けて見える気がするときで、

でも逆に考えたら、

良くも悪くも「セックス」と「オナニー」を切り分ける若い世代って

極端に突き詰めたら

「えっこれは性行為じゃなくてオナニーだよ?ただ生身の人間を介在させているだけ」

みたいな話になるかもしれなくて、それは上の世代からすると違う発想なんだろうなあ

とか少し思いました。

 

文学の世界の中ではもう数十年前にそういう未来に到達してしまっている人がいます。

「おまいら、本番の準備としてオナニーしてるとか言ってるけどな、考えてみ」

「生身相手にしてやってる回数とオナニーしてる回数、普通どっちが多い??」

「そう考えたら俺らは『オカズにするために』セックスしてるんや、違うか?」

 

 

間違いなく、デジタル世界から簡単に(自分の性癖に適合した)オカズを手に入れて、

ドラッグストアの衛生用品売場に置いてあるセルフプレジャーグッズを買って、

プライバシーの確保された個室で鍵かけて、ヘッドホンしてオナニーできる世界の住民は、もはや20年前に青春を過ごした人たちとはもはや違う次元に生きてますわ。

 

身体は数百年前から変わっていないけれど、技術レベルが全然違う。

技術レベルが違うのは結構致命的なことで、

メガネがなければ俺は視覚障害だったし、

xvideosがなければ俺はもっと性に苦しんでいただろう。

 

中学生の時、保健体育の先生が

「俺らが中学生の時はな、夜中にエロ本の自販機にこっそり買いにいくんだよ、そしたらな、エロ本がすげえデカイ音立てて落ちてチビりそうだったわw」

なんて話してくれたのもにわかには信じられないくらい時代は変わってしまった。

 

酒場で

「なんかもう最近全然ナンパされないんだよね、歳なのかな。昔はめっちゃ声かけられてたんだけどね。」

ってクダ巻いてる

綺麗なアラフォーのお姉さんもいれば、

 

ふとカフェで隣を見たら、

やたら携帯のロック画面にTinderからの通知が来まくってる人妻風のお姉さんもいるわけで、現代って意味不明の時代だなと思うわけです。

 

TENGAさんのYouTubeに過去企画の動画上がってるみたいなので見てみてください。では〜。

 

 

末代の生き様

 

めふぁにっきです。

 

渋谷でダチ氏とお茶していたら、

「たまには日本語を読みたいと思って貴様のブログを読んでいるのに、最近の貴様はたるんでおるぞ。」と喝を入れられました。すみましぇん。

 

お茶したときの話をまとめます。

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▲うまうまネパール水餃子

 

今ほど俺らの世代は〇〇だよね。という一言で表現できない時代もないと思うんです。

「今ほど」というのは90年生以降、世間的にはゆとりと呼ばれる世代以降の話ですが。

そもそも隣にいる同世代のヤツがどういう音楽を聴いて、どういうメディアを観て、休日はどう過ごしているかがわからないのが当たり前で、せいぜい服装でなんとなく「人種」はわかるけど…それ以上わからない。それに慣れっこです。

 

だから突然「俺らは音楽でいうとアムラーの世代なんだけど、君らはどういう世代だい?」と聞かれても、「んとー、俺はこういう人間なんだけど、でも友達は別のものを聴いてるし、でも世の中にはバンギャってのもいて…」みたいな答え方にしかなりません。

 

メインカルチャーとかサブカルチャーって区分は、メインのカルチャーが大きなアリーナでめっちゃ人だかりができている反対側のサブアリーナで細々と固定客相手に商売してる…みたいなイメージがあるんです。

でも、少なくとも私から見た「同世代」というのはカラオケの個室みたいなもので、なんとなく曇りガラス越しに女子が多いなとか、合コンだろうな、サラリーマンだろうなというのはうっすらわかるし、中から聞こえてくる歌でどういう人達か漠然とわからないではないけど、それ以上には何もわからない。そんな感じがするんです。

 

個人的な感覚でいうと、初対面の人の趣味は特に相手が話題にしてこない限りは実家の葬式仏教の種類並に触れない話題です。

 

そういえばお互いに趣味をオープンにして会話するシーンってどういう場合だっけ?みたいな話題になったんですが、考えつくのは「合コン」とか「付き合って最初に彼氏の家に行った時」みたいなシーンくらいで、よほどオープンにする理由がない限りオープンにしないなぁ…と思ったんですが、どうなんですかね。

 

現代の恋愛や結婚は家同士ではなく、個人同士で行われるので、「どっちの宗派で葬式する?」とかいう話よりもお互いの趣味をどう認めるかみたいな話がより重要になってくると思うんです。一個人の趣味とはいえ、個人主義の現代ではもはや宗教みたいなもんです。

 

信仰を捨てるか、パートナーを取るか

趣味を捨てるか、パートナーを取るか

 

嫁さんが追っかけやってるのを認めるかとか、旦那が部屋にフィギュア集めてるのを認めるかとか、ここんところがうまくいかないと、ある日どちらかが「子供じゃないんだから!」とか言って趣味のもの全部無断で捨てちゃったら離婚どころか傷害事件になってもおかしくないです。

 

オタク同士のカップルがある程度趣味を尊重しあえるのは、なんというか多神教的というか「私はガネーシャ推し。あなたはシヴァ推し。違う神様拝んでてもお互いの神様は尊重するの。」的な感覚に近いんじゃないかと半分思ってます。

 

自分を自分で肯定できるために、自分が自分でいられるために何を軸に考えているかによるんですが、「家庭を築いている自分」が軸の人は恋愛をする段階から案外あっさり捨ててしまえて、 「趣味を生きている自分」が軸の人は「なんでたかだか人間のために生きる意味を捨てないといかんのだ??そりゃオマエを捨てるに決まってるだろ」という反応になると思うんです。

志賀直哉の小説「清兵衛と瓢箪」の中で、幼い清兵衛という少年は、瓢箪(ヒョウタン)に異常な執着を見せ、しかも非常に高価な瓢箪を選び出す才覚まで備わっているのですが、まったく理解のない父親は清兵衛を叱りつけ、彼の持っている瓢箪を片っ端から叩き割って、彼の趣味を無理矢理やめさせてしまいます。

 

恋愛をすることが軸になっている人は、相手に付き従い尽くすことを心に決めてしまえば、瓢箪くらい簡単に叩き割りますし格好も簡単に変えます。時にそういう人は「パートナーが年甲斐もなく瓢箪なんかに異常な固執をしている」と相手の瓢箪を叩き割りもします。

個人のたわいもない個性は叩き潰してでもパートナーを作らせる方が社会の維持には便利なんでしょうが、現代社会にもはや普遍となる規範は存在せず、個々人は自分の価値を後生大事に抱えています。

 

もうすでにそういう時代になっているのかもしれませんが、あと一世代経ると、恋愛や結婚に異常な執着をする文化が主流になるのかもしれません。自分の瓢箪を守り抜く側の人間がこのまま末代になるとしたら、自然淘汰的に次の世代に生き残るのは「どれだけ魅力的な娯楽が世に溢れていても恋愛と結婚に執着する」個体の子孫の確率が高いです。

娯楽が時代を追うごとにますます魅力的になっていき、それでも変わらず繁殖に勤しむ個体が生き残ります。

 

 

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▲うまうま小籠包

 

メンヘラやビッチちゃんと話していると、たまに異常なくらい結婚に執着している子を見かけます。どうして今まで種が保存されていたのか不思議なくらい歪な精神構造の持ち主であればあるほど、ああ、なるほど、この執念が今まで代々命を繋いできたんだね、頑張っているねと妙に感心してしまいます。

きっとこの子はどこかで遊び尽くしてきちんと相手をとっ捕まえて、「あがり」になって、子孫を残していくんだろうなあと考えて、なぜか脳裏に綿毛を飛ばしまくるタンポポが浮かんできます。

 

ひょっとするとこの少子高齢化社会は末代にとっては最後の栄華になるかもしれないのです。人口と文明レベルを維持できずに滅ぶか、繁殖力の高い個体で社会が溢れるか、どちらにせよ末代に先はありません。

なくてもいいのです。だって末代だから。