非モテにつける薬
バファリンは優しさでできている。
厳密にはアセチルサリチル酸と製薬会社の荒利が大半を占めていて、ほんのわずかながら優しさが含まれている。添付資料にはそのことは書かれていないがどうやらそうらしい。
別にバファリンの宣伝がしたいわけではないので痛み止めならナロンエースでもイヴAでもロキソニンでも好きなものを飲めばいい。
痛み止めにはたくさんの需要があるから、みんな痛み止めを必要としていて、そこにお金を出す。
世の中に困りごとがあって、その解決手段にみんながお金を出すなら、解決手段を売る人間は儲かるし、研究開発にもお金が集まる。
資本主義と自由経済のいいところだ。
最近は本人の努力の問題だと思われていたことも薬やセラピーで解決できるようになった。
落ち着きがないならADHDの薬を飲もう。
自分の体が思ってた性別と違う?それならホルモン療法があるよ。
気分が落ち込んでいるなら向精神薬を飲もう。
それなのに非モテの男には性欲抑制剤は処方してくれない。潜在的な市場はかなりでかいはずだ。ヘテロの独身男性は年間に性にかなりの金と時間を使う。
エロサイト、マッチングアプリ、風俗…。
半年に一度10万の注射を打てば性欲と無縁になれるのなら、打つ選択をする非モテ男性は多いんじゃないだろうか。
だらだらYouTubeを見ていると、時々髭剃りのCMが流れる。
毎朝10分を髭剃りに費やすと、1年で3650分!10年髭剃りしたら…?
脱毛して時間を節約しよう!
よくわかんないけど、
・髭剃りには時間がかかる
・時間は節約すべき
・永久脱毛すると時間の節約になるらしい
らしい。
1日2時間は自慰行為に励んでるあなた!
毎日2時間を自慰行為に費やすと、1年で730時間!去勢したら10年で7300時間の節約にりなります!
どうもそうはならないらしい。
らしい。
先天的失恋障害なので化学療法を受けたいのだが。
「性欲 抑える 薬」で検索したら楽天市場が精力剤を勧めてきた。
化学的去勢で検索をかけたら性犯罪者の再犯防止策が出てくる。
要するに、手法はあるものの刑事罰的な立ち位置で民生化される予定も見込みもないらしい。
どうして性欲が治療やサプリメントの対象にならないのか。
おそらくは性欲が社会の根幹をなしているからだ。
社会は常に誰かのちょっとした不満を必要としている。全員が満たされていては、小さな変化も大きな変化も起こるきっかけを与えられない。ある種の不満は政治で、ある種の不満は経済で、時に医療で解決される。
どういったわけか、性欲が経済で解決されることはあっても、内分泌の問題だから医療で問題解決しようという話にはならない。
それは、性欲とそれに付随するあらゆる衝動が社会の原動力に関わる重大なメカニズムだからだ。
多分。そうらしい。
エロサイトのサブスクの支払は今月も俺の財布を蝕む。
魔が好くスキマ
嘘つきの話を聞いた。
興味があったら読んでほしい。
(リンクが変な感じになってるけど変なサイトではないです…)
くっそ長いので端折ると、
・ゲーム改造界隈の話
・改造界隈にも天才と凡才がいる
・天才改造屋を詐称する嘘つきが、改造界隈を丸ごと巻き込んで無茶苦茶をやった話
・好き勝手やった自称天才改造屋が最後には追い詰められてボロが出た
・上のリンクは、嘘つきが暴れ回った経緯と、二度とこんなことが起こらないようにするための対策について書かれた話
さらに補足をすると、これはTwitterなどのSNSがそんなに普及していなかった時代の頃で、界隈のメンバー同士はSkypeを通してやりとりをしていた。
SNS時代にだってなりすましはあるが、過去数年間にわたってどんな交友関係にあって、普段どんな過ごし方をしているかがある程度わかるというのはかなりすごいことで、今回の話はSkypeや掲示板を通していた当時だからできたなりすましかもしれない。
彼は、天才改造屋という肩書を使って、それなりに優秀な改造屋に自分の仕事を手伝わせることに成功した。また、他人に作らせたデータを界隈にバラ撒くことで、自分自身にはまったく改造能力はないのに、あたかもそんな能力があるかのように見せた。
結果的にだが、この時手伝わせた改造屋が疑念を膨らませ、自称天才改造屋は偽物であることを暴かれてしまう。
最後の最後、暴かれきる直前まで、天才を騙る男はあの手この手で嘘に嘘を重ね続けた。
嘘つきの話を聞いた。
興味があったら読んでほしい。
日曜THEリアル!【緊急捜査!トラブルSOS 結婚をエサに女性をダマす男は許さないSP】 | OHK 岡山放送
そんなに長くはないが端折ると、
・詐欺師に弁護士がリアル凸してしばく番組
・今回は結婚詐欺師
・パイロットを詐称し、身分証まで詐称して女を騙す
・女からいくらか金を借りた後は姿をくらます詐欺師
番組の中で印象的だったのは、この詐欺師の
男はかつては本当にパイロットを目指していたのか、今でも諦めていない様子が見られるところだ。
弁護士から「これは文書偽造ですよね?あなたはパイロットではないんですよね?」と問い詰められる。
窮した男は「そうなっちゃいますね…」という言い方をする。
主観だが、なんだか結果的にそうなっちゃいましたねという言い方に聞こえるのだ。
女から金を巻き上げて、ひと財産築き上げて落ち着いた後は本当にパイロットになろうとしていたのだろうか?
他人を騙そうとする人は、誰よりもまず最初に自分自身を騙すのだという。
改造ゲーム界隈の嘘つきは、誰よりも天才改造屋になりたいと願っていたのではないだろうか。
パイロットを詐称する男は、誰よりもパイロットという成功者になりたいと願っていたのではないだろうか。
彼らは、非常に不合理なやり方ではあるが、自分自身に夢を見せることに成功した。
なりたくてもなれなかった何者かに、自分がなれたと幻想を見ることに成功してしまったのである。
彼らは、彼らの認知の中では紛れもなく成功者なのだ。だから成功者風の振る舞いができる。
次にしたことは、同じようにコンプレックスを抱え、何者かになりたいと渇望する者たちにも夢を見せてやることだった。
天才改造屋に憧れる人々。
パイロットと付き合いたい女たち。
誰だって、自分が憧れる存在に近づきたいと思う。なりたくたってなれない何者かになりたいと願う。
しかしそこに心のスキマが開くのだ。
わずかに開いたスキマを、魔は見逃さない。
一度入り込まれると、あの手この手で詐欺師は夢を見せ続ける。自分自身を騙すのにはそれなりに努力を要する。しかしそれに一度成功してしまえば、コツがわかるようになる。
コンプレックスを抱える人間が、何を望み、何を見せてもらいたいのかを。
詐欺師たちを偽物だと見抜く機会は、実は無数に存在した。
あれ?と思う瞬間は言葉にしないまでもあったはずだ。
どんな詐欺もそうだが、騙される側はその全てを見逃してしまう。
だって、それを認めてしまったら、自分は嘘つきに簡単に騙されるような人間だということになる。そんな屈辱に大抵の人間は耐えられない。
非常に巧妙なことに、詐欺師たちは本格的に騙すにあたって、少し大きめの要求を相手に飲ませる場合がある。
先の改造ゲームの場合は、書き手の人物に序盤で少し仕事を手伝わせている。
仕事を手伝った以上、自分が詐欺師の片棒を担いでいるという事実は、仮に頭をよぎったとしても認めたくない事実へと変わる。
だから、目を逸らし続ける。
蜜を吸い尽くされるか、次の獲物が見つかった段になって、詐欺師は気を緩め、その尻尾をチラ見せする。
その段になって初めて、騙されていたという疑念が確信に変わる。
かくして、夢を見せてくれた人は詐欺師へと姿を変えるのだ。
詐欺師の本質は、夢を見せてくれる人だ。
ただその夢が、醒めてみれば霞になってしまうというだけだ。
何者かになりたい、認めてもらいたい。
そんなスキマを今日も誰かが狙っている。
Pドル考
オタク話。
デレステのP(プロデューサー)の話。
カプ厨・夢女の分類に近いところがあるかもしれないが、一回話したことをまとめる。
デレステを始めとして、アイドルマスターシリーズはユーザーに対して単なる視聴者ではなく、プロデューサーという特定のロールを求める。
アイドルのファンやサービスのユーザーではなく、プロデューサーであることを求めるサービスはアイドルマスターシリーズの大きな特徴となっている。
多くの作品がストーリーに対してどのような立場を取るかを焦点としているのに対し、アイドルという人格を自ら解釈し、消化し、自己表現していくことが求められるコンテンツでもある。
だから、公式から提示されるストーリーやキャラクター設定は必ずしも絶対ではない。
公式から提供されるものは星空に散りばめられた星の一つ一つであり、星どうしをどのように繋いで、そこにどんなキャラクター像を描くかはユーザー(プロデューサー)の解釈に委ねられているともいえる。
また、二次創作を前提とした公式運営がなされているという見方もできる。ここ15年ほどのコンテンツ制作はどこもそうなっているが、公式では描けない世界観や、キャラクター像の補完、パロディ、他世界解釈が二次創作で展開されることを公式が織り込み済で設定を作っている傾向がある。
(中の人だったことはないので本当のところはわからないが、少なくとも二次創作を即アンチ公式と捉える制作陣はほとんどいないだろう)
前置きは長くなったけれど、P(プロデューサー)と一口にいっても、アイドルをどう解釈しているかによってPの姿があるし、Pの数だけアイドルの解釈の形がある。
Pのオタクをじっと眺めていて、大雑把にどんなPがいるかを考えた。
あとは勝手なことを書く。
今から書く話は、いろんなやつがいるなー程度の話で、誰が正解とか、どれが間違ってるかという話ではない。あしからず。
①Pドルのオタク
②カプ厨のオタク
③自己投影のオタク
④ガワ好きなオタク
①Pドルのオタク
Pである自分自身と、アイドルとの関係性を考えるオタク。
アイドルの人格を他者と捉え、どんなかかわりを持ちたいかを中心にアイドルの解釈を組み立てる。
デレステのコミュはP主観で組み立てられているので、①のタイプはどちらかというとノーマル。
自分とアイドルの関係性を深掘りするので、必然的に近しい人格の人が集まりやすくなる。
ちなみに、アイドルとP(自分)との関係性を突き詰めていった結果、複数人格(自分ではないオリジナルP)を創作してしまうケースもあり、この場合はPドルというより②のカプ厨のPに近くなる。
ちなみに時々アイドルが身につけてる小物やカレンダーや楽屋のリモコンになりたがる人がいるがこれもまたPドルの一つだと思っている。
②カプ厨のP
①同様に関係性のオタクではあるが、自分ではない何者かに関係の担い手を託すオタクである。
逆にいうとPドルはP×ドルのオタクとも言える。
Pドルには限界がある。
Pが自分自身である以上、アイドルの顔は「Pと居る時の顔」でしかない。杉下右京さんは相棒が変わるたびに全然違う顔を見せてくれる。アイドルにも特定の誰かの前でだけ見せる顔がある。
そういう願望を叶えてくれるのがユニットであり、少し過激になればカップリングでもある。
③自己投影のオタク
一番ヤバいオタクである。
それと同時にコンテンツにとっては1番の追っかけでもある。
公式の描くアイドルの一部または全部に人格を同期させている。
「◯◯ちゃんかわいいよ」
まだわかる
「◯◯ちゃんと△△ちゃんの絡みよき」
まあわかる
「俺が、俺たちが◯◯ちゃんだ!!!」
かなりヤバい。
とはいえ、ある意味で一番プロデューサーに向いているタイプだとは思う。
個人的にアイドルを依代・媒体として自己表現するのがプロデュースだという立場を取っているので、自己表現とアイドルプロデュースのシンクロ度が高いというのはPの鑑なのではなかろうか。(個人の意見です)
この手のオタクにとっては、公式が出す全てのアウトプットは、自分の人格とアイドルの人格の「答え合わせ」の場でもある。
だからPドルを見てもオイシイし、カップリングを見てもオイシイ。
答え合わせがうまく行けばいくほど、「やっぱ◯◯ちゃんってそういう子だよね!!」と大歓喜する。
一方で、解釈違いを起こした時の反応は凄まじいので、勝手な想像だが公式からすると扱いづらいんじゃなかろうか…。(個人の意見です)
④ガワ好きなオタク
良くも悪くもガワに終始するオタクである。
スタイリスト、演出屋、舞台照明班のようなスタンスの人が多い。
彼らにとって重要なのは素材である。
バンドマンだろうが、上京したての芋っ子だろうが、スタイリストの手にかかればあっという間に化けるし、そんな方向性もアリなの?!という着せ替えもできる。
ファッションそれ自体が目的化しているので、表現そのものを楽しんでいる。
美容師と話していると、一定数、芋っ子を化けさせるのが好きで好きで堪らないヘキの人に出会う。演出という本来手段に過ぎないものをとにかく楽しむことのできるハッピーな人々である。
書きたいことを全部書いたのでこの話はおしまい。
真の意味でのプロデューサーとはどんな人なのか?
正直それはわかりません。
二次創作の界隈でも、この人の絵がキッカケでこのアイドルはバズった!とか、◯◯Pと言えばこの人!みたいなのはちらほら見かける。
自己表現を続けていったらその界隈の広告塔になってしまった人もいるし、オリジナルPとアイドルの話を書いている人もいるし、こればっかりは人の心に何が刺さるか次第なので、本当に誰にもわからない。
気軽に、軽率に尻軽にPを名乗って、自分の内面ぶちまけていきましょう!
ひねくれあじさい
「絵はこころをあらわします。みなさん、ポエムを書いて、絵をつけてみましょう。」
中学校の教室。
担任の教師がクラスに向かってポエム大会の開催を宣言した。
50に入ったばかりのおばちゃん先生は、豊かな表現の重要性を生徒に説くと、大きめの短冊のようなものを教室の前の方から配った。
めいめい、大きめの短冊に詩のようなものを書いていく。
その様子を満足気に見届けると、担任は15分時間をとりましょうといって教室を出ていった。しばらくすると生徒たちは教室のそこかしこで雑談を始めた。
線を引き終え、色塗りに入ったらしい女子たちは色ペンの交換をしていた。
えー俺なにかいていいかわかんねえ!とやんちゃなやつが短冊とペンを机の上に放り出し、頭の後ろで腕組みし始めた。
高畠くんはというと、鉛筆を回しながら何を描こうか思案していた。
窓の外を見ると、梅雨の中、紫陽花が咲いていた。青よりの紫だった。
そうして、紫陽花を描くことに決めた。
ついでにもう一つ思いついたので、真後ろの席のカズちゃんに提案を持ちかけた。
「なあ、俺の作品と、カズちゃんの作品、入れ替えようぜ」
「別にいいけど…」
カズちゃんは教室でこそ大人しいが、人が提案したイタズラには乗るタイプだった。
高畠くんがポエムを考えて、紫陽花の絵は自分で描いた。
そしてポエムはカズちゃんがボールペンで丁寧に清書した。
最後にカズちゃんが自分の名前を端に入れたので、それはカズちゃんの作品になった。
同じように、カズちゃんの考えた作品を高畠くんが清書した。
高畠くんの字は汚くて、カズちゃんはポエムにやる気がなかったので、合わさってなかなか味のある作品になった。
こうして、高畠くんとカズちゃんは作品を交換したのだった。
みんなが描いた絵は、教室の後ろに貼り出されることになった。
ひとつひとつの絵を担任が淡々と批評していく。
一巡した結果、担任は”カズちゃんの描いた紫陽花”がいたく気に入ったらしかった。
高畠くんとしてもこの紫陽花は自信作だった。
弁の一枚一枚を、2Bの鉛筆で筆圧高めに描いたもので、短冊からはみ出るばかりに描かれている。
「カズにこんな才能があるなんてな!」
担任の絶賛は止まることがない。
だが、今担任が褒めているのは”カズちゃんの作品”であって高畠くんの作品ではない。
すこしむず痒いような気持ちを抑えながら、高畠くんは平静を装った。
一方のカズちゃんも、なんだか困惑したような顔をしていた。
カズちゃんは、気弱でおとなしい子だと思われているので、これは照れている顔だろうとお思った担任はさらに賛嘆を続けた。
カズちゃんの顔は、次に担任が”高畠くんの作品”をこき下ろし始めた時、さらに困惑の色を強めた顔になっていった。
「高畠はまったくこころがこもっていない」
担任は高畠くんを、勉強ばかりしてきたので、頭はいいが情操教育が欠如したかわいそうな子供だと決めてかかっている。
実際そんなに高畠くんの頭はよくないのだが、おばちゃん先生の頭の中では4月の時点でそういうことになったので、この思い込みが解けることはない。
当の高畠くんは、”高畠くんの作品”を担任がこき下ろしているのが滑稽で、おかしくって仕方がなかったが、今こき下ろされている作品は本当はカズちゃん作なので、半分申し訳ないような気もあって複雑な気持ちだった。
以来、担任の中でカズちゃんは「意外にいい絵を描く内気な男の子」ということになった。
おそらく担任は通信簿の中でもカズちゃんの絵を褒めただろう。
カズちゃんの両親が困惑したかどうかは正直知らない。
ポエムの提出課題があるたびに、高畠くんとカズちゃんはポエムを交換した。
最初、こんなこともう止そうよとカズちゃんが言い出さないか不安だったが、カズちゃんもこの状況が面白くなってしまったらしく、担任がポエム大会に飽きるまでこのゴーストライター活動は続いた。
”カズ画伯”の描くポエムは毎度絶好調で、担任は毎回褒めていた。
ある時、担任はふたりの作品を並べて、
「もう、高畠は少しはカズを見習えよ」
などと言ってきたので、高畠くんはとうとう堪えられず担任の目の前で吹き出してしまった。
担任は、どうしようもない高畠がまたヘラヘラしていることには苛立っていたが、その横のカズまで笑いを堪えていたのがなぜかは、とうとうわからずじまいだった。
カルト屋さんの作り方
しあわせという概念は非常に漠然としている。
幸福とはなにか、という哲学をしたいわけではない。
ただ間違いなく、個々に幸せをどう考えているかは、当人のパーソナリティを考える重要な鍵になる。
「幸せになりたい」
「当然自分は幸せになるべきだ」
「ひょっとしたら自分は幸せになれるかも」
あえて言葉にしないが、自意識の根底を流れる、いわばベースとも言えるスタンスがある。
<しあわせへのスタンス 枠組>
①自己の尊厳意識
②幸せの定義と定義域
③幸せとの距離・難易度
①自己の尊厳意識
自己承認と呼ばれる領域のこと。
自分が自分をどう扱うかの問題でもある。
時々、「私はどうあっても幸せになるべきなんだ」という強烈な認知の人に出会ってびっくりする。どうかお幸せに。
これ自体が結構重いテーマで、これがバグっていると、いざ幸せになれるシチュエーションに遭遇しても、認知不協和を起こしてしまう。
「自分がこんなに幸せになる資格はない」みたいなエラーはここに起因する。
②幸せの定義と定義域
これこそ哲学の領域だ。
マズロー曰く、欲求が満ち足りて行くと次第に高尚な欲求へとステップアップしていくそうだが、実態はもっと雑で、そんなに綺麗にいくものでもない。
ただ漠然とした意識を抱えて、思いつく欲求に従っているのが大半だし、当人の認知のあり方次第では、過去に自意識を置き去りにしたまま生きている人間もいる。
③幸せとの距離、難易度
ほとんど②と同じようなものなのだが、このあたりが本人の満足度を決める。
本人が定義できていない幸せには到達できない。
また、定義できていたとしても、そこへたどり着く道のりが見えているかどうか、取り組めているかどうかでも満足度は変わる。
世の中でなされる幸せに対する議論の大半はこのへんである。
カルトやマルチはこういうのを利用する。
②をまず決めてやる。
①は実はあんまり重要じゃない。
幸せになるべきだと考えている人間にも、自分なんかと思っている人間にも、②さえ決まっていればあとは解釈の問題でしかないからだ。
そこまでできたら、あとは③をうまく設定するだけだ。
ニンジンをぶら下げるという言葉があるが、届くか届かないかくらいのところに目標を設定してやると人も馬もよく走る。
走り続けると、結構人は単純で、プロセスそのものにハマることがある。
悟りを開けるかどうかはどうでもよくなって、修行こそが重要だと思わせる。
カルトの連中は本当によく働く。
よくできているなあと毎度唸ってしまうのは、多様なスタンスがあるにも関わらず、一定確率でハマるようにできているカルトの仕掛けだ。
しかも大半の人間は幸せが何かなんて定義していないし、日本では伝統的な宗教でさえ思考から排除しているから、こういう思考の枠組に対して免疫がない。
挙げ句に地域共同体は崩壊し、群れて生きることも辞めているので狙われやすい。
死について考えることもないから、この世はカルトにとっては餌場でしかない。
とかくに人の世は住みにくい。
ぼくは化学ができない
僕は化学ができない。
生物もできないのだが、習ったことがないからできなくて当たり前だ。
父親も化学ができない。
中学校の時に、下方置換とか上方置換を習ったので、家に帰ってそういったら、はじめて聞いたような顔をしていた。
ひょっとすると親譲りなのかもしれない。
化学は一応授業を受けている。寝ていた時間も長いが一応教室にはいた。
最初の先生は未定係数法をフィーリングで解くとか言っていた。
センスがなかったのか、フィーリングで解くことはついにできなかった。
学校というのはどうやらものを教える場所ではないらしいということに、この頃から薄々勘付きはじめた。
夏に来た教育実習生はノールックで中和滴定の実験をやっていてすごかった。
ノールックで中和滴定ができても東京の理科大学では男ばかりだからモテるとは限らない。
そこそこいいルックスなのにもったいないなという感想だけを覚えている。
こんなにもちゃんと受けているのに、さっぱり化学がわからない。
糖やアミノ酸は、あまりにわからなすぎて昼寝の時間だった。
ノートを見返してみるが、字が汚くて数字が読めないしベンゼン環や五員環を描くのがめんどくさいのか後半からよくわからない多角形が書かれている。
手書きのノートにはコピペ機能がないから不便だ。
行列の授業も同じ理由で0を書き続けるのが面倒で授業を受けるのを辞めてしまった。
塾講師をしていた頃、生徒に化学物質の名前が覚えられないと相談された。
実は自分もよくわからなかったので、あれはラテン語の羅列でできているから、元のラテン語を覚えれば君も化学物質の名前を覚えられるよ、二郎のトッピングみたいなもんさと教えてあげた。
二郎のトッピングってなあに?と続けて聞かれたので、「ニンニクヤサイマシマシアブラカラメ」を教えてあげた。生徒の化学の成績は上がらなかった。
高校生の時、隣の県の大学に模擬講義を受けに行った。
発酵についての授業だった。
微生物がなにかを分解して、新たな何かを作り出す営み。これが発酵だという。
ちなみに、同じ事象を「腐る」と呼ぶことがある。
そのへんの基準は人間に委ねられているから、人間に有益なものを発酵と呼ぶのだという。
ペットボトルに砂糖水となにかを詰めて、アルコール発酵する実験をやった。
ペットボトルの中で、気泡がポコポコと上がっていく。
発酵ペットボトルは持ち帰っていいよと言われ、リュックに詰めて持ち帰った。
自室の窓際に発酵ペットボトルを置いて、帰宅すると気泡を眺めるのが日課になった。
ときどきひっくり返してやる。更にもとに戻す。
出来上がった気泡が上下へ移動するのが楽しかった。
ある日帰宅すると、ペットボトルは消えていた。
部屋が片付いていた。
なにかを察したぼくは、台所で洗い物をしていた父親に食って掛かった。
「窓際においてあったペットボトルはどうしたの??」
「ああ、なんか腐ってたから捨てたよ」
ぼくはおこった。
「あれは腐ってるんじゃない!発酵させていたんだ!」
ごめんよ、とつぶやく父親を背に、綺麗に洗って乾かしているペットボトルを見てぼくはため息をついた。
時を待つ囚人のように
星新一のショートショートに、火星に流刑にされる囚人の話が出てくる。
『処刑』というあまりにそのままなタイトルがついている。
火星に流刑にされた囚人は、一つの球を持たされる。
この球は、死刑執行装置と生命維持装置が一体になったもので、小型の核爆弾が内蔵されている。火星は、かつて開拓され、その後に放棄されたのか、シェルターになるような旧市街と砂漠からなっている。ただし水はない。
そこで囚人は貴重な水を得るために球に頼らざるを得ない。
球についたボタンには2つの役割があり、1つは水の供給、もう一つは、非常に低確率ではあるが、小型の核爆弾が炸裂して処刑を執行する役割。
非常に巧妙な仕掛けで、火星には何人も同様の囚人が送り込まれているにもかかわらず、それぞれはこの処刑から逃れることができない。
結論から言うと、主人公である囚人は、ある悟りを得て、死への恐怖から解放される。
火星における死と、地球における死とに、実は何の差異もないことを知る。
地球における死は、複雑で、あまりに巨大であるがゆえに全貌は不可視。
一方で、火星における処刑は、原因と結果が明瞭で、ただ確率のみがその場を支配する。そして、非常にコンパクトである。
主人公は、突然、この事実を悟る。
あらゆる行動が確率に左右されて結果を生む、結果は、自らの運命を決めている。
そのうちの一つが「死」というだけだ。火星ではこの構造が明瞭になるだけだ。
その時がいつであれ、我々は日々を生きる。
現代人は、驚くほどに自らの終焉について自覚しない。
古代ローマでは、祝宴の最中に、使用人が主人に「メメント・モリ」と囁き、今この瞬間の享楽と、必ず訪れるその身の終焉に強烈なコントラストをつけていたという。
伝統社会において、死を自覚するとは、「己の終わり方を自ら決める」ということだ。
伝統社会でも、現代社会でも、死は、文字通り本人の死角から迫りくるものだ。
その予感があっても、兆候があっても、その瞬間のありさまを自ら決めることはできない。
仮に自害であったとしても。
その瞬間をどう捉えて生きるか、これだけが死に正面から対峙する唯一の手段である。
敬虔なカルヴァン派として知られた街の名士は、ある日の夜中に目覚めて絶叫したという。
彼らは「確証の教理」で生きている。
救われるかどうかは予め決まっている。そこに人間の願望や交渉の余地は存在しない。
日々を「救われる側」として生きることで、自分が確実に救われる側であると確信しながら生きるしかない。
自らが救われる側であると確信する。
周囲に対して救われる側である演技をする。
絶対救われない/救われないかもしれない/救われるかもしれない/絶対救われる
破戒者。これは非常に楽だ。絶対に救われないのだから。
確証の教理を生きる名士は、救われるかもしれないと絶対救われるの間にいる。
しかし、命題は常に真か偽かしかない。絶対救われるか、それ以外かだ。
時を待つ囚人のように、己の救いの確信を積んでいる。
それでも答えはすでに、宇宙創生の時点で定められている。
そうであれば、そこまで積み上げた生涯の全ては無駄だ。
まったくの無駄か、救われるための必定か。
カルヴァン派の男は、このような命題に向き合うことで、己の「死」と向き合っている。
強盗か、疫病か、老衰か、あるいは酔って転ぶか、なんであれ終焉は確実に待ち構えている。その時が明日だとしても、「救われる側」である己を演じきる。