めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

雑巾絞り

表現の根底には葛藤が存在する。

葛藤なくしては表現は生まれてこない、そこにある必要さえない。


この場合の葛藤は、社会の中における自分と、自分が自覚している自分とのギャップや自己矛盾を指す。

移民文学や越境文学は、社会の中の自分と、自分自身が人生の総体で受け止めてきたルーツやアイデンティティとの間にある、深い深い溝から生まれてくる。

移民社会においては、移民が社会に受け入れられる(二世、三世になるにつれて現地社会への順応度が高まる)につれ、このような自己矛盾が解消され、移民文学のムーブメントが沈静化していく…というようなことが起こる。


現代は表現者に対して、表現そのものに対して主体的であることを求める。

この論法では、突き詰めていくと「表現のための表現」でさえも主体的だからいいことになる。この場合、「表現している自分」こそが自分自身だというある種の強迫観念に基づいて表現に取り組むことになる。


中身のないやつはどう絞り出したって何も出てきやしない。


「表現している自分こそが自分なんだ」というあり方は、それはそれで葛藤なのかもしれない。ほんとうはなにもない自分から必死で目を逸らし続けた結果、ひとかどの何者かになれるのならば、それはそれで立派なのかもしれない。


こういう話は創作に限ったことではない。

政治的・社会的な活動だって立派な自己表現だが、こういった活動はかなりの確率で手段と目的が入れ替わってしまう。


何がしたいのかイマイチはっきりしない意識高い系の学生。

往々にして、彼らは高校生くらいまではそれなりにはっきりしたアイデンティティを持っている。急に、なぜかしら大学生になってマルチにハマったり、社会的に意味のある(とされている)表現にハマったりする。

学校社会は彼らに居場所やアイデンティティを与えてくれる。

社会的によしとされる活動をしていれば、自分が何者なのかを自ら考える必要がない。

テストでも、学校社会の中の優等生ヒエラルキーでも、そのマウントの体系に居座っている限りにおいて、彼らは安泰である。


ある段階で、学校社会から放り出される。

優等生の問題点として、「頭でっかちなこと」とか「勉強ばっかりしていること」とかよく言われるが、全部的外れだ。

本当の問題は、自分の幸せを自分で考えられない頭を数年かけて彼らが作ってしまったことにある。


彼らの罪は2つある。

1つは、マウントの体系に囚われ、ヒエラルキーの中の位置づけで優越感を覚える悪癖をつけたこと。

もう1つは、自分自身の価値判断の基準を、無責任な他人に委ねてしまったことだ。


最初の罪は、人間なら程度の差こそあれ誰でもやっていることなので、仕方がないものではある。

自分にとって有利な軸で他人と自分との間に優劣の差を生み出す心の営みである。

生者と死者、富める者と貧しいもの、社会的地位の上下…。

資本主義経済はこのような心の動きを原動力として動いているのでなかなかこれを真っ向から否定することは難しい。


もう1つの方は、無責任な他人に自分の価値判断を委ねたことだ。

小集団の中のヒエラルキーや、優劣の基準というものはその中での基準に過ぎない。

永久にその集団の中で生きるのであれば問題はないが、現代社会においてそれはほとんど稀有な事象である。

学校社会などというものは、一生居続ける組織ではない。

ましてや、そんなおままごとのような社会はそこを出た卒業生の行く末に対して、何の責任も負ってはいない。


そんな無責任な組織からの無責任な承認は、容易に人をダメにする。

お利口にしていればちやほやされるなら、他者からの承認に敏感な青少年は喜んでお利口になろうとする。そうして演じてお利口になっているうちはいいが、無意識のうちに毒が回り、お利口でなければいられない身体にされてしまう。


そこまでしてできあがったお利口ジャンキーたちは、突然承認を得る手段を失い、戸惑う。

戸惑い、狼狽え、あるものは他人にマウントを繰り返し、あるものは「社会的に有意義な活動」とやらにハマる。


表現そのものを目的にした表現は猿の自慰行為と大差がない。

今まで得られていた快感を再び得るために、押しても報われないボタンを無為に押し続ける。

繰り返すが、葛藤なき表現は表現ではない。

真剣に社会や他者と向き合った中で気づいた自己矛盾こそが、その人の人生の総体を賭して勝ち得た葛藤であり、表現の源だ。


空っぽなやつはどう絞ったって何も出てきやしない。