SEと営業は一生わかりあえない
社会で生きていると、無数の行き違いがある。
言葉という未熟なツールを使っている以上は仕方のないことなのだが、伝えたいメッセージが受け手に正しく伝わることは滅多にない。
こういうことを防止するために、社会人は多くの時間を復唱とかリマインドとかサマライズに使っているのだが、それでも絶対に行き違いは発生するものなのだ。
シチュエーションは無限にあるが、とにかく伝わらないのであればコミュニケーションのリトライを試みなければ仕事が前に進まない。
さすがに前に送ったメッセージを再送するとメンヘラか壊れたロボットだと思われるので、「伝わっていない」ことを双方ともに認識する必要がある。
こういう場合、業務の性質や組織の体質によってリトライのスタンスが変わってくる。
コミュニケーションのエラーの責がどこにあるかで大きく分かれる。
もっというと、「どこにあると思っているか」で分けられる。
受信側に問題があると思っているタイプと、送信側に問題があると思っているタイプだ。
前者、つまり受信側に問題があると思っているタイプは伝統的な学校の授業のイメージだ。
教壇に立っている教師からメッセージが発信される。
このメッセージはほとんどの場合、正しい(ということになっている)。
だから生徒側(受信側)の理解に問題があった場合、受信側の能力か態度に問題があったということになる。
コミュニケーションにおいて、発信側が受信側より圧倒的に「えらい」。
質問する場合も、「(私が)よく理解できていないのですが…」「(私が)聞き逃していたら申し訳ないのですが…」という前置きが自然になされる。
後者、送信側に問題があると思っているタイプは…機械との対話、たとえばプログラミングのイメージである。
プログラムは思ったとおりには動かない、書いたとおりに動く。
真剣に書こうが怠惰に書こうが、エラーはエラーである。
環境にもよるが、「エラーですよ」しか教えてくれないこともある。
動くか動かないか、無理かそうでないかがはっきりしているだけに、ファジーさが削られている。
こういうスタンスは対人コミュニケーションにもある程度持ち込まれる。
今受け取ったメッセージを自分は正しく受け取れなかった。
受信側の問題もないとは言えないが、受け取れなかったというリザルトは相手に返さなくてはならない。だからこう言う。
「ちょっと何を言っているかわからないです。」
これを受けて、ははあ、なんかエラーを吐いたぞ。言い方の問題かな?それとも専門用語が多かったかな?というような試行錯誤をするのは送信側の仕事である。
また、コミュニケーションにおいて、不明瞭な事柄を残したままにすることは嫌う。
したがって、この文化圏の会話は妙にズケズケした物言いになりやすい。
前者と後者のスタンスは、どちらがいいとも悪いとも言えない。
扱う事柄の性質によって、コミュニケーションの様式が変化しているだけだ。
体育会系にありがちな前者のスタンスも、一概に悪いとは言えない。
客先や目上の人間が気持ちよくコミュニケーションできるように特化したスタイルであり、対外交渉には向くスタイルである。
また交渉事では、物事をグレーゾーンのままにしておいたほうがいい場合もある。
受信側に責を置くコミュニケーション文化の内部にいると、この文化に「飼いならされて」いく。えらくなるほどに、この文化を変える気がどんどんなくなっていくのだ。
コミュニケーションの階層を上がっていくほど、出世するほどコミュニケーションがどんどんファジーに、見方を変えれば楽になっていくからだ。
えらければえらいほど、受信側がこちらの言いたいことを勝手に補完してくれるからだ。
日本語ではこの補完が過剰に機能することを「忖度」という。
あまりにこの機能に頼りすぎると、人間がだんだんアホになっていくという欠陥もある。
部下がなんでも補完してくれるので、名詞が全部「アレ」になったり、述部が全部「いい感じにやっといて」になる営業あがりのえらいさんというのも珍しくない。
いろいろ書いたが、結論は1つしかない。
営業とSEは一生わかりあえない。それだけだ。