できるとできないの境界線
現代人は能力を信仰している。
ほとんど崇拝しているといってもいい。
伝統的な価値観が廃れ、あらゆる権威が否定される時代において、何かができることは無条件にいいことだと信じられている。
能力は素敵だ。
そんな能力を他人に付与できる制度はきっともっと素敵だ。
だから現代人は教育もほとんど無条件に崇拝している。
能力と教育を崇拝しているくせに、いやむしろ崇拝しているからこそ、能力に対する認知は曖昧になっている。
人間は情報処理の大部分を、言語ではなく非言語の領域で行っている。
だから「できる」ことと、「できるを言語化している」は別物なのである。
できるやつほど、そのあたりは苦手なのだが、教育システムはできる人間に言語化能力を期待する。
ただし、実際のところ、人類は技能を教授するうまいやり方について、これといった答えをもっていない。
集合知の中に解はないので、個々人がそれぞれの原体験でもって能力観や教育観を形成している。能力信仰は深まる一方だが、能力形成についての知見は一向に深まることがない。
跳び箱10段を跳べるようになるにはどうしたらいいか?
それは、2段からはじめて1段ずつ増やしていけばいいんだよ。
こんな風に、文字通り1段ずつのステップが踏めるような技能であれば、100%とはいかなくても教授法の成功率は高いかもしれない。
ただし、世の中の技能やスキルのほとんどはこのように分解されていない。
実のところ、ここまで分解できていれば教えるのも容易で、人間どころかその能力を機械にインストールすることさえ可能になっているからだ。
ほとんどの能力・技能は、逆上がりのようなものだ。
できるとできないの間にステップはなく、明確な境界線が引かれている。
できる側の人間はできない側の人間に何も教授できない。
自転車に乗れると、乗れなかったことの頃が想像できなくなるのと同じように、できない状態を理解できなくなるし、乗れない側は、乗れる認知がわからないので境界線の超え方がわからない。
能力についてのこのような問題をどう処理するかが、組織ごとの「天才」「秀才」「凡人」の分類を分かち、新人を選別するか、それとも訓練するかの違いになってくる。
時々、技能獲得をするにあたって、「逆上がり」のような認知で取り組んでいる人を見かける。ここに現状認識はなく、内省もない。自己認識が曖昧なので、ステップ感などありはしない。
ただひたすらに、「できる」と「できない」の境界線を超える瞬間を目指して、その再現を目指して繰り返す。誰ができる側かは宇宙開闢の時点で決まっているから、数千回の試行の中で自分ができる側であることを証明するだけ、と言わんばかりの態度である。
そして晴れて「できる側」になった人間は、できない側を選別するか、普通できるという態度を取るようになる。
天は二物を与えず、プレイヤーとしての能力と、教官の能力を兼ねるものは稀有である。
それら2つは元来別の能力であり、また、何かを非言語的に理解しているということが、特に言語的な理解を阻害する場合があるからだ。
1人の教官は1000人のプレイヤーに匹敵する。
また、幸運にもプログラマの能力も兼ね備えていれば、全世界の端末にこの知見を配信することも可能になる。
残念ながらそれは稀有に稀有を掛け算した事象であり、そのへんに転がっている才能ではない。
書き飽きたのでこのへんで。
お察しの通り私は逆上がりができなかったし、できないし、これからもできるつもりはない。