めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

選択肢より正解を

めふぁにっきです。

 

今とても喉が渇いていて、飲み物を買おうと思ったとする。

道端でおいしいミネラルウォーターを売っている人がいたので、水を買うことにした。

 

ところがあたりを見渡すと、他にも水を売っている人が何人もいて、どの水もパッケージや謳い文句が違っていて、それでいて魅力的だ。

そうはいっても全部の水を買うことはできない。せいぜい1本か2本の水を飲めば、もう飲みたくないと思うことだろう。ここにいたって、どの水を買うのが正解なのだろうか。

 

選択肢の中から1つを選び出す時、1つなら悩む余地はない。

2つなら少し迷うが、2つのうちどっちが好みか考えればいいだけだ。

3つならどうだろう?

こうして選択肢の数を増やしていくと、もともと何を得ようとしていたかよりもよりよい選択をすることの方に関心が寄せられていく。

人間の脳の容量の問題もある。

そもそも100個も選択肢があったら、選択という行為そのものが成立しない。

もし1つを選んだとしても、それはたまたま自分が手にとったからであり、選んだ本人にとってはあまり自分で選んだという気はしないだろう。

 

自分で選んだという実感を持ちつつ、そんなに選択そのものに悩まされない選択肢の数は、個人差もあるだろうが、だいたい3前後だという。

 

選択肢がないのは嫌。自分の意志で選び取りたいけれど、たくさんあると選び疲れる。あまりにたくさん選択肢があると選んでないのも同然になってしまう。

人間は選択肢の数に対しては案外ワガママなのだ。

そう考えると人間が考える「偶然」とか「必然」の区分なんて、突き詰めるとそんなことなのかもしれない。

 

いたるところでサジェストされまくる現代社会に生きていても、人間の脳みそは数百万年間ほとんど変わっていない。Tinderで延々スワイプし続ける男の子を見ていると、もうそんなにスワイプしてたらもはや選んでなくない?と聞いてみたくなる。

選ばれてはいるかもしれないけど。

なんかマッチングアルゴリズムが動いていい感じにマッチさせてくれるとかいうのでとりあえずスワイプし続けている。もはや選ぶってなんだっけ。

 

それでも「自分が選択した」という体験は結果に対する満足度を大きく左右する。

こうなるとマッチングも売買も、モノの良し悪しはあまり関係がない。

一定以上保証する仕掛けと、なんか良いマッチングができてそうなゴタクと、あたかも本人が選んだように思わせる演出さえあればそれで人は満足する。

アルゴリズムだかAIだか知らないが、中身はサイコロでもいいし、最悪何もなくても成り立つ。賽の目であれ、クジであれ、AI(笑)であれ、なんとなくアウトプットが偶然の産物っぽい仕組は古代から神事にはつきものなのだ。

 

別にAIの中身がサイコロでも乱数生成でもマシンラーニングでも大差なんかありゃしない。御神託を受ける側からすれば全部ブラックボックスだし、最初に自分が恣意的につくった選択肢の中からあたかも「自分の意志を超えて」選んでくれる仕組がそこにあれば満足する。

 

ギリシアの信託の中身だって硫黄吸ってラリってるばあちゃんだし、なんかこの際「新世紀のAI」を謳って、ラリったおじさんの独り言とサイコロで占いとかやったら流行るかもしれない。多分地下賭博かなんかで捕まる。

より合理的な選択肢を選ぶにはどうすればいいのか、人間は最近そればかり考えてきた。でもどこまで合理的になろうと努めたって人間の選択には限界がある。

それよりも、当人があたかも選び取ったかのように演出し、「えらいね、君は賢いからそうやっていつでも”正解”を選び取れるんだね」と思わせてくれる仕組の方が人間には向いているのだろう。

 

それが科学であれ、宗教であれ、賽の目であれ、もはや洗脳してくるパートナーでもいいのかもしれない。どれだって構わない。