めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

人形は舞台から降りられない

 

「アイドルって、楽曲とか演出とか色々あって初めて成り立つわけじゃん。」

「そうだね」

「逆に言うと、その前提がなくなっちゃったらアイドルではなくなってしまうって意味でそこに悲しみを覚えるんだよね」

 

その文脈でいくと、と前置きをしてから持論を展開する。

自分のアイドル観には「依代」というイメージが前提になっている。プロデューサーという陰陽師がいて、紙切れに過ぎない人形(ひとがた)にかりそめの魂魄を込める。

吹き込まれている間だけは人形は生きているかのように振る舞い、魂魄を通じた術師とのつながりが切れると、人形は元の紙切れへと戻っていく。

 

近年のアイドル観は、アイドル自身の主体性に軸を置き、人間としてのアイドルにフォーカスを当てているものが多い。それは表現者は主体的であるべしという、現代思想と芸術の間で結ばれた暗黙の協定でもあるのだろう。

 

だからこそ、『ステージママと子役』という主題は芸能の世界ではありふれてていながらも、現代社会においてあるべき表現者の型からは外れている。それでいて、最も優れた表現者はその中から生まれてくるだけに、彼らの存在は常に矛盾を孕んでいる。

 

結局のところ、幼い頃から特殊な訓練に耐えて、特殊な環境で育ってきた彼らを「長い下積み時代」などと呼び、「自ら表現の壁に挑み続ける者」というストーリーにすり替えることで主体的な表現者という現代社会のタテマエにうまく取り込んでいる。

そしてショービジネスに欠かせない観客もまた、彼らの長く苦しい下積み時代もまた演出として受け入れ、喝采するのだ。

 

あえてそんなところも踏まえた上で、アイドルをプロデュースする人間こそ真の表現者と規定し、プロデューサーの意図を忠実に再現する秀でた依代、つまりアイドルを敬意を込めて「人形(にんぎょう)」と個人的には呼んでいる。

 

「じゃあ、めふぁこにとって本当に見たいのはプロデューサーの表現であって、アイドルというのはある種のインターフェイスにすぎないってことだね」

「そうなるね」

 

依代というより、自分のイメージはイタコに近いかもしれない。

演劇であれ、総合芸術であれ、すべては第四の壁に隔てられた、現代では数少ない聖別された領域で起こることだ。そこに立つ者は俗世におけるあらゆる業を捨て去って、フラットになる。

「良い役者は『作れる』役者じゃなくて、フラットになれる役者だ」

演劇を長年やってる人間からそんな話を聞いて、霊媒師みたいだなとその時はぼんやり思った。人間としての本来の人格を仕舞い込んで、別の表現、別の人格を受け入れる身体をスタンバイさせる能力。

それが役者と霊媒師の共通点なんじゃなかろうかとふと浮かんだ。

 

「個人的には、めふぁこのいう人形がどっかの時点で人形じゃいられなくなって、それでも芸能界に居残ろうとするアイドルとか見てると悲しくなるんだよね」

「人形として育てられたのに、若さ以外の理由で人形でいられなくなるタイミングがきっとあるんだろうね」

「それでも、他の生き方を知らないから芸能界のどこかには居場所を見つけ出そうとしてしまう、それをはっきり見てしまう瞬間が悲しいんだ。」

 

舞台に上がることを目的に作られた人形は、檜の舞台から降りて生きる術を知らない。

そして社会は主体的な表現者であれと言外に命令し続ける。