墓守の毎日
人間はよく忘れる生き物だ。
あまりに忘れっぽすぎて、自分が忘れていることさえ忘れている。
そこそこ長く生きていれば、精神に傷を負うことはある。
手酷い失敗をしたこと。
裏切られたこと。
ひどく恥をかいたこと。
その一つ一つを人は割と覚えていない。
いや、覚えていないのではなく、主体的に忘れているのだ。
前に進むために、自分を好きでいるために、自分にとって都合の悪い事実は主体的に忘れていく。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)なんて言葉がある。
古代中国の王様たちが、負けた屈辱を忘れまいと、薪の上で寝たり毎日にがい肝を舐めたりしたそうだ。
昔この話を知った時、まだ子供だったけれどなんだか少し変な気がした。
そんなことをしなくっても、負けたことが本当に悔しいのなら覚えていられるんじゃないか。
大人になってしまったからよくわかるけれど、大人は自発的にいろんなことを忘れている。いっときの自分が二度と負けるまいと思ったからと言って、寝て起きて翌日になったら忘れている。
なんでおれはあんなにムキになっちゃったかな?
今考えたらそうでもないや。忘れよ。
そして何日も経てば、嫌なことがあったことさえ忘れてしまう。
万事こんな具合だ。
逆に考えれば、いちいち嫌なこと、悔しかったことを細かく記憶しているようでは、ふつうの精神はもたないのだ。
死ぬほどでないなら嫌なことは忘れる方が健全なのである。
人間は忘れる生き物である一方、実は被捕食者としての側面もある。
長い長い歴史の大半で、人間は被捕食者だったのだ。
虎に食われ、熊に食われ、弱っていれば鷹にも喰われる。
被捕食者は、食われる恐怖がDNAに刻まれている。そうじゃなかったやつは皆死んだから。
細かな嫌なことは忘れても、生存を脅かすような恐怖は身体レベルで覚えているのだ。
「むかつく」「虫酸が走る」「生理的に無理」
苛立ちや恐怖の表現の最上級は、身体的な反応に行きつく。
脳は忘れっぽいけれど、身体は結構物覚えがいい。心身症やトラウマというのは、強烈な情念が心を突き抜けて、身体レベルの記憶になってしまったケースだ。
覚えたいことがあるなら、頭より身体に覚えさせた方が長持ちする。
臥薪嘗胆というのは、硬い寝床や苦い味覚をトリガーに、記憶や情念を保持しようとするライフハックのことなのである。
なぜならば脳はびっくりするくらい忘れっぽいから。
あの日に屈辱を受けた自分は、その記憶や情念の風化と共に死んでしまう。
嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、俺はやるぞと一念発起した日でも、その日の自分を忘れたくないのであれば、習慣や行動に刻んでおくべきだ。
記憶は風化する墓標のようなもので、繰り返し繰り返し、上書きを続けなければならない。
そこに刻まれた故人の名前はかすれて読めなくなり、やがて何も無かったことになる。