めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

遺伝子レベルでゼロサムゲーム

 

 

めふぁにっきです。

 

文化や民族は、それ自体が数世代にも渡るゲームを繰り返している 集団であって、グローバル化しようが、時代が移り変わろうが、前の時代にやっていたゲームの名残が少なからず残ってしまう。

宗教、経済体制、政治体制、教育の在り方、配偶者の娶り方、それぞれが文化というゲームの要素で、プレイヤーはその中で生き延び、子孫を残すための特徴的なプレイスタイルを数世代かけて構築する。否、正確にはたまたま構築できたものが次世代をより多く残していく。

それらの生存競争の名残は後の時代に不可解な、時に時代の状況に対して不合理とも思える挙動を見せる。これらをうまく説明しようとして用いられたのが「エートス」と呼ばれる、「前時代のゲームで形成された習慣に基づく行動原理、習性」である。

 

日本は島国であり、生産のゲームとして捉える場合、地理的には地続きの部分は海で囲まれ、閉じた1つの「系」とみなすことができる。

もちろん古代から幾度かにわたって日本は大陸に進出しようとしたこともあったし、日本人傭兵と倭寇は海を行き来し、渤海と交易した時期もあった。決して日本列島が面している海は荒波とはいえ「閉じた」海ではない。

しかし農業生産という点に関していえば、継続して海外から大規模な穀物の輸入があったわけではなく、歴史の大部分を通して国内の決して広くはない耕作可能地を拡張したり、生産性を上げることで賄っていた。16世紀から17世紀には大規模な地形改善と「勤勉革命」と呼ばれる労働集約型の農業生産体制の確立により、以後爆発的な人口成長を遂げた。

 

題に掲げている「遺伝子レベルでゼロサムゲーム」で描きたいのは、この勤勉革命の直後、日本の農業生産高とともに人口も頭打ちになった頃の何世代かについてだ。パイの増えない世界では、労働力と生産力を天秤にかけて、生まれた子供のうち何人かは間引きされ、相続は長子もしくはそれに適すると思われる男子にのみ行われた。相続権のない子は農村でその身分に甘んじるか、「奉公」という形で大坂や江戸といった大都市へ出ていくかという選択を余儀なくされた。

当時世界有数の大都市ではあったが、農村から出てきた彼らの多くは財を成すでもなく、所帯を持つでもなくただ一人長屋の隅で死んでいった。その裏側で遊郭や蔦屋(貸本業)といった独身文化が花開いた。この状況、現代日本にどこか似ていないだろうか。

 

現代日本人の気質の一部はこの時期に形成されたのではないかと考えている。

貨幣経済が浸透しつつあったとはいえ、農村の限られた生産力で扶養できる人数には限りがある。対外的な戦争もない世の中では、生存をかけた競争は外側に向かってではなく、内側へ向けて行われる。

そこにあるのは共食い、蹴落としあい、けなしあいの世界である。閉じられた世界で彼らが戦ったのは「誰がこのコミュニティで生き残る資格があり、誰がないのか」を互いに監視しあう生存競争だったのではないか。

つい100年前には食い扶持のない若者は日本人傭兵として海外へ逃げる機会もあり、山田長政のように異郷の王国で名をあげる道もあったというのに、閉じてしまった国の中で当時の若者はそのあまりに熾烈な国内の生存競争に参加せざるを得なかった。

高度経済成長期に賛美された日本人の勤勉さ、と呼ばれるものはこの頃に培われたのではなかろうか。内部に向けられる淘汰圧から逃れるため、「コミュニティの中で生き残る資格を得るために勤勉さを周囲にアピールする」という形で今に残っているのではないだろうか。

 

 コミュニティの一員を指して彼はここで生きるにはふさわしくない、と判断したときの日本人の集団としての残酷さは際立っている。日本が経済成長という唯一の救いを失い、多くの若者が路頭に迷ったとき、日本人(主には長老に属する部類)が彼らに何をしたか。「彼らは自己責任でそうなったのだ、きっと彼らが怠惰だからに違いない」と切って捨てたのだ。むろんこれは江戸時代の談ではない、つい20年前の話だ。

 

日本人は宗教を持たないとされる民族だが、宗教を信仰する者が異教徒に向ける以上の敵意や無慈悲さを同胞に容赦なくつきつけ、見殺しにし、それを正当化できる精神性を持っている。

現代日本はあいかわらず、20年間国際経済の中でパイが拡大する見込みもなく、ミクロレベルでは再びゼロサムゲームの世界に突入しようとしている。

 

次はどのような理由で同胞に牙を剥くのだろうか。

お前にはこの先生き残る資格はないと、どれだけの若者が告げられるのだろうか。