めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

カルト屋さんの作り方

しあわせという概念は非常に漠然としている。

幸福とはなにか、という哲学をしたいわけではない。

ただ間違いなく、個々に幸せをどう考えているかは、当人のパーソナリティを考える重要な鍵になる。


「幸せになりたい」

「当然自分は幸せになるべきだ」

「ひょっとしたら自分は幸せになれるかも」


あえて言葉にしないが、自意識の根底を流れる、いわばベースとも言えるスタンスがある。


<しあわせへのスタンス 枠組>

①自己の尊厳意識

②幸せの定義と定義域

③幸せとの距離・難易度


①自己の尊厳意識

自己承認と呼ばれる領域のこと。

自分が自分をどう扱うかの問題でもある。


時々、「私はどうあっても幸せになるべきなんだ」という強烈な認知の人に出会ってびっくりする。どうかお幸せに。


これ自体が結構重いテーマで、これがバグっていると、いざ幸せになれるシチュエーションに遭遇しても、認知不協和を起こしてしまう。

「自分がこんなに幸せになる資格はない」みたいなエラーはここに起因する。


②幸せの定義と定義域

これこそ哲学の領域だ。

マズロー曰く、欲求が満ち足りて行くと次第に高尚な欲求へとステップアップしていくそうだが、実態はもっと雑で、そんなに綺麗にいくものでもない。

ただ漠然とした意識を抱えて、思いつく欲求に従っているのが大半だし、当人の認知のあり方次第では、過去に自意識を置き去りにしたまま生きている人間もいる。


③幸せとの距離、難易度

ほとんど②と同じようなものなのだが、このあたりが本人の満足度を決める。

本人が定義できていない幸せには到達できない。

また、定義できていたとしても、そこへたどり着く道のりが見えているかどうか、取り組めているかどうかでも満足度は変わる。

世の中でなされる幸せに対する議論の大半はこのへんである。


カルトやマルチはこういうのを利用する。


②をまず決めてやる。

①は実はあんまり重要じゃない。

幸せになるべきだと考えている人間にも、自分なんかと思っている人間にも、②さえ決まっていればあとは解釈の問題でしかないからだ。

そこまでできたら、あとは③をうまく設定するだけだ。

ニンジンをぶら下げるという言葉があるが、届くか届かないかくらいのところに目標を設定してやると人も馬もよく走る。

走り続けると、結構人は単純で、プロセスそのものにハマることがある。

悟りを開けるかどうかはどうでもよくなって、修行こそが重要だと思わせる。

カルトの連中は本当によく働く。

 

よくできているなあと毎度唸ってしまうのは、多様なスタンスがあるにも関わらず、一定確率でハマるようにできているカルトの仕掛けだ。

しかも大半の人間は幸せが何かなんて定義していないし、日本では伝統的な宗教でさえ思考から排除しているから、こういう思考の枠組に対して免疫がない。

挙げ句に地域共同体は崩壊し、群れて生きることも辞めているので狙われやすい。

死について考えることもないから、この世はカルトにとっては餌場でしかない。

 

とかくに人の世は住みにくい。