うまく嘘をつく法
人を呪わば穴二つ。
あるいは、コトダマと呼ばれる事象がある。
呪いの言葉は必ず我が身に返ってくる。
スピリチュアルなニュアンスでなしに、言葉を経由した毒には必ず反作用がある。
これはなぜ起こるのか。
言葉には2つの側面がある。
一つは、個体間での情報伝達。
「愛してる」とか「あそこにライオンがいてあぶないです」とかそういうやつだ。
そしてもう一つは、忘れがちだが、個体内部での思考プログラム構築だ。
「あそこにライオンがいて危ない」と思考している、この思考プログラムそのもののことだ。
ほとんどの場合、この2つは共通したイメージ体系・言語体系で紡がれる。
内部に存在しないイメージや言葉を吐き出すことはできない。
むろん、支離滅裂な音の羅列を発声することはできるが、この場合個体の外側でも内側でも音の連なりが意味を紡ぐことはない。
なにか嘘の情報を他人に伝える時、発信者は一度その情報を自己内部で「解釈」しないといけない。それが理解であれ肯定であれ否定であれ、一度は自己プログラムのどこかを通過させることなく発信することはできない。
嘘、偽り、呪いの言葉をリアリティをもって相手に伝えるのであれば、自己内部で一度その感情や論理を再現しなくてはならない。怒りの演技をする者は、自らの内部に怒りを起こす必要がある。
同じ感情、同じ論理体系、同じ言葉を用いている限り、送信と受信とは表裏一体である。
多くの表現は、自己解釈を経由し、そこから身体やメディアを通して表出する。
また、大変奇妙なことだが、表現から自己解釈が生まれることもある。
(元気な動作をしていると元気な気がしてくるような事象はだいたいこれだ)
自らを通して表現をする限り、自らを通過する思想が送信者自身にまったくなんの影響も与えないことはありえない。時間的に継続するかはともかくとして、発信するためには必ず一瞬、自らの思考の中にその解釈を受け入れる必要があるのだ。
嘘のリアリティを高めたければ、これは非常にかんたんで、自らがその嘘を心から信じ込めば良い。
嘘を「信じている側」と「嘘だと知っている側」で世界を二分する時、
一番うまく嘘を付く方法が「信じている側」に自らを寄せることだというのはなかなか奇妙な話である。
だから時々、『嘘を信じている自分』から帰ってこれなくなって、自分がついている嘘と本当の違いがわからなくなってしまう人間が出てくる。
こうなってしまうと本人には何が嘘か真かわからない。
おそらく小規模ながら我々の日常にも頻発していることだ。自覚がないだけで。
呪詛にしても同様だ。
誰かを疲弊させたり、困憊の後衰弱させてしまうようなリアリティあるイメージを誰かに伝えるには、発信者自身もまたその高いリアリティを経験する必要がある。
そしてこれが反芻を伴い、「帰ってこれなくなる」レベルのトラウマ級のリアリティであった場合、食らった人間はただでは済まないが、発した人間もまた無事では済まない。
逆にいえば、そこまで高いリアリティを経験できない人間は幸運で、想像もできないし送信もできない。代わりに自家中毒を起こすこともない。