一発逆転症候群の会
人生には波がある。
どれだけ真面目にやっていたって、
どうにもうまくいかなくなる時だってある。
それは誰に訪れるかわからない。
人間、いい時は誰しもいい人だ。
人が真価を問われる瞬間というのはいい時ではなく、ダメな時だという。
ダメな時に一番自分を苛むのは、実は周りにいる誰かではなく、自分自身だ。
普段から他人を馬鹿にして、内心でマウントをしている人間は、いざ自分がダメな側になった時、誰よりも自分自身から馬鹿にされることになる。
人生がうまくいっている時にこの症状が表面化することはない。
他人に優越感を感じられる限りは精神が安定しているからだ。
しかし、一度人生の谷に差し掛かると、途端に足取りがおぼつかなくなり、谷底へ転落していく。
こういう手合にとって、周囲の人間に助けを求めることは、必要な手立てではなく、自分をよりいっそう惨めに思わせる演出になりうる。
だから彼らは助けを求めない。
なにがなんでも独力で再起を図ろうとする。
ある種の物語に毒されているのか、幼いころから仲間に恵まれなかったのか、他人に力を借りることをよしとしない。
ひょっとすると、マウントを取る癖が過ぎて、自分が見下せる人間としか付き合っていないのかもしれない。そうなればなおさら、付き合いのある人間に助けを求めることは、本人の中では間違いなく恥だ。
世の中には本当にうまくできている。
一風変わった人間がいるなら、そういう人間のための落とし穴がちゃんと掘られている。
Youtuber、アフィリエイト、新進気鋭のクリエイター、株で一発当てて億万長者。
別に悪いとは言わない。それで成功している人だっている。
かつてはフリーターや、有名ブロガーと呼ばれる人もいた。
いつの時代にも、地道なルートとは別の、抜け道みたいな道が存在している。
でもこういう道には別の側面があって、一発逆転を夢見た若者の死骸の上に成り立っていることを忘れないほうがいい。
普段から他人にマウントをして生きている人間の目には、人生がマラソンのように見えている。成功に向けて道は一本しかなく、成功に近いかどうかしかこの世に軸は存在しない。
マラソンの最中に、ふと足を挫いてしまうことがある。
少し休んで、また走り出せばいいだけなのだが、マウントに囚われた人間の思考はそうではない。
自分が今からどれだけ走ったって、自分と一緒に走っていたやつらに追いつくことはできないかもしれない。
自分はもっと先を走れるはずなのに、足を挫いた遅れを取り返すことは決してできない。
そして、一緒に走っていた周りの奴らは、落伍した自分をみて笑うだろう。
自分のペースで走るという本質的な問題解決よりも、今自分が負けているという事実のほうが気になってしかたがない。
そういう心の持ち主に、一発逆転の落とし穴は甘く囁く。
1000人に1人しか選ばれないかもしれないが、特別に君だけを先頭集団のところに導いてくれる抜け道を教えてあげよう。
君を置いていった他の誰よりも圧倒的に成功者になれる抜け道だ。
実際に成功者はいる。君もきっとそうなれる。
そうして若者は出口のわからない抜け道へと誘い込まれていく。
抜け道は実はこんな仕組みでできている。
成功者がいるというのは本当に嘘ではない。
しかし、世の中には、参加者が少しだけ幸せになれるゲームと、数%の上位者がほとんどの分け前を持っていってしまうゲームが存在する。
そして抜け道は後者のゲームだ。
抜け道は常にたくさんの生贄を欲している。
若くて、向こう見ずで、認められたい。
リスクにも無駄な努力にもめげない若者が無数に犠牲になって、やっと1人か2人の成功者が得られる。そして成功者が呼び水になって、さらなる犠牲者が誘い込まれる。
一発逆転症候群の人間の抱える問題は2つある。
1つは、独りで生きようとすること。
もう1つは、プライドが高く、他人を見下して生きていること。
人間1人の能力というのはどこまでいっても1人分の能力しかない。
だから、人間としての強さは、どれだけ多くの人間と協力できるかにかかっている。
卵が先か、鶏が先かわからないが、他人を見下すが故に他人と協力できず、協力できないがゆえに、無理を自力で押し通そうとする。
なんだかんだいっても抜け道の中で成功する人間も、仲間がいて、とびきり面白くて、別にどこにいってもやっていけるようなやつがほとんどなのだ。
どうしても好きなことがあってその道にいくのならそれはとてもいい選択だろう。
周りを出し抜いてやろうとか、誰の力も借りずにビッグになってやろうとか、そういう心が少しでもあるのなら、抜け道に入り込むのはやめたほうがいい。