めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

トラウマと安い肉は飲み込むタイミングがわからなくて反芻してしまう話


めふぁにっきです。

 

メンヘラがトラウマをいつまでも反芻しちゃうお話。

 

「いま、この瞬間」はどうやって知覚されているのか。
過去の経験や記憶に大きく左右されるという立場もあるし、そういったことと関係なく、当人にはその瞬間の人格が存在するという立場もある。
攻殻機動隊』シリーズでは、ある瞬間の意識の根底を、内的感覚が下支えしているという描写がそこかしこで繰り返される。
この主張によれば、「水槽の脳」のような状態では、人間(およびあらゆる脳を持つ生物)は厳密な意味でもとの自我や意識を保てない。脳は脳独立単体(スタンドアローン)で意識を成立させる機構ではなく、内
臓、皮膚など五感から絶えず入力を受けて初めて意識が芽吹く。逆に言えば、意識の大部分はそのような入力から成り立っており、それが途絶えた段階で意識は空中分解を始める……。

 

『記憶』というのは非常に奇妙な機構である。
記憶について、過去をそのままそっくり脳のどこかに留めておけると長らく考えられてきた。
しかし実態は「再生」ではなく、「再構成」であることが最近の研究でわかっている。

過去を再生するのではなく、過去の情報のカケラを集めて現在に「再構成」するのが記憶を呼び起こすという行為なのだ。
これを利用すると、「再構成」の瞬間に現在の身体状態に変化を加えることで記憶自体を編集できることがわかっている。

ただそうはいっても、技術的に可能という話であって、記憶自体が、過去に実現した精神状態を何らかのトリガーでもって現在に「再生」する仕掛けであるのは大枠でいって誤りではない。


私自身が忘れっぽい人間なので、いまだに想像できないのだが、過去について写実的な記憶を残せる人間というのが世の中にはいる。
忘れっぽいからこそ、記憶を言語や違和感といった抽象的なものに託して乗り切ってきた人間からすると、写実的な記憶能力というのは、にわかには信じがたいが、本当にそんなものがあるならば、羨ましくもある。
どれくらい忘れっぽいかでいえば、家の中で動いていて、ふと自分がしようとしていたことを忘れるくらいである。
そういった場合、自分の状況を鑑みて、数分前の自分という赤の他人が何をしようとしていたか推論する。
推論の果てに、そういえば俺はこうしたかったんだったという妙な納得と合わさって、ようやく合点とともに行動が開始できる。

それくらいいい加減に生きてくると、自分自身が時間とともに考え方が変わっていくことにも寛容になれるし、他人がどれだけ変わっていくかについても同様に寛容になれる。

写実的な記憶能力と引き換えに得ているものは、推論の習慣と、自分と他人がいい加減で、移りゆくものであることに対するおおらかさだった。

一方で、写実的な記憶能力というのは本当に卓越した能力である。
画像的な記憶に強い人間、音声情報に強い人間、様々に種類があるが、過去の場面を臨場感を持って再度体験できるというレベルの人間がいる。
この手合が弱いのは、「記憶に編集性がないこと」「言語化の必要性を感じにくいこと」である。

記憶に編集性がないというのは、臨場感があまりに高すぎるがゆえに、当時の感覚、解釈まで再生できるタイプで起こる話である。
「トラウマがある人間の心の中には、そのタイミングの人格が残る」という事象はよく聞くが、これは、もとの記憶力ゆえか、ショックの強さゆえか、その当時の自我による解釈ごと、脳裏に刻まれてしまうがゆえに起こることだ

小学生の時に失禁をした、いたずらをして叱られたなどの記憶は、せいぜい5年も経てば笑い話になっている。
その当時のリアリティと記憶が薄れ、事象に対する解釈が大幅に変わっていくからだ。
解釈をしているのは小学生だった自分ではなく、5年経った自分なのだから、そこにリアリティはなく、自身の記憶を俯瞰して見ており、当然解釈の方向性も変わってくる。
人間は常に記憶を編集しながら生きている。
編集を繰り返しても一向に記憶が良くならないケースは存在する。
なんらかのトリガーを通じて呼び起こされたリアリティが、「今」を悪化させる場合だ。
この場合、今現在を生きる自意識の、「今」に対する評価さえも変えてしまう。
このループが続く限り、その人は今に生きている人とは言えず、生きながらにして過去を生き続ける人間となってしまう。

言語化の必要性を感じにくい」の話は少々難しい。鶏卵論争になる。
言語化、というのはすでにそれ自体が「鮮明なイメージ」を味気ない単語の1つに固着させるプロセスであり、解釈の1手法でもある。
他者への共有意識が弱いから、言語化する試みがなされず、結果イメージの再解釈がなされないのか。
イメージが再解釈されることなく「再生」されるので、そのリアリティの高さゆえに、言語化される試みがなされず、他者へ共有されないのか。
どちらかはわからない。

書きたいことはあらかた書いたのでおしまい。