書くことは忘れること
めふぁにっきです。
個人的な話。
何のために書くのか、という話になると、決まって「忘れるために書いている」と答えることにしている。
実際のところもそうなのだ。
ブログの記事を読んだよ!とか言われると、まずは感謝の意を伝え、それからどのタイトルを読んだのか聞く。
……タイトルを聞いても時々何の話を書いたか覚えていない。
「アダルトVRにいってきた話」とか
そういうどこでナニしたのかわかりやすいタイトルにしろよ俺。
「お前はすでにサイボーグ」とか「それ以上可能性を感じてはいけない」とか
タイトルから想像つかねえだろうが!!
そんなわけでよくタイトルと内容の要約を感想と一緒に聞くことが多い。
もはや誰が作者だかわからない。
現代文でよく「作者の気持ちを答えよ」とか出題されているが、当の作者で自分が書いた内容を覚えているやつがいたら純粋に嫌味なくスゴイと思う。
何万字も文字を書いている人間ならなおさらだ。
そんなこと書きましたっけ???くらいじゃないのか普通。
めふぁ家の父なんか自分の研究分野の論文を検索していたら、
なんだかとても同意できる論文にであったので、ぜひとも名前を覚えておきたいと作者の欄をみたら自分の名前だったというギャグを毎年やっている。
認知に問題がなければこれはもう遺伝である。
もともと記録というものは残すためにやるものである。
だが自分の場合、繰り返すが忘れるために書いている。
頭の中にいろいろな考えが浮かぶと、それで頭がいっぱいになる。
人間の生活はとても忙しいのだ。
自宅に体重50kg超えで日に2000キロカロリー食べる獣が住んでいるのだ。
生活とはその獣の住環境のメンテである。
よくわからん考えで頭をいっぱいにしていては食事も洗濯もままならないのである。
『ハリー・ポッター』シリーズに「憂いの篩(うれいのふるい)」という魔法道具が出てくる。直接記憶を残して、人に共有したり長期保存したりできる装置である。便利。
あんまり設定をよく知らないが、記憶の抽出装置なので、トラウマ記憶とか取り出して保存できるんではなかろうか。治療に使えそうである。
自分にとって書くこととはそういう「憂いの篩」のようなものだ。
最近確かめたいと思っている仮説が、「ホラーとかえっぐい話を書いている人ほど案外当人の人格はすっきりしているという説」である。
無限ドロドロ生成器みたいな人格をした人でない限り、書いたものは頭から抜けていく。ホラー成分を頭から定期的に排出しているタイプの創作者は案外ホラー成分が抜けているんじゃないかという仮説。
本当のところは知らん。作家さんどなたかご飯行きましょ。
あ、書き忘れていたがTwitterは例外である。
自分が書いたものに共感する人が集まってくる、似たようなメンタルのフォロワーが似たような傾向のツイートをRTする。SNSにはそういう精神構造の反射炉みたいなところがある。次第に世の中の人は自分と同じ考えをしていると思うようになり、よりラジカルさを極めていく。
ゆえに、SNSは書けば書くほどに特定のメンタルの方向性が強まっていく構造になっている。
書くことは忘れること。
やはり食べ歩きをやっていると飯テロ画像が携帯に溜まってくる。
電子の海に時々こうやって放出することで、携帯の容量を節約できるメリットもあるのだ。あとに残るのはカロリーだけである。
▲めんたいこ
追記
友人から記事のジャンル分けを勧められました。読み返しつつ、気が向いたら分類します。