めふぁにっき

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属性の叩き売り

昔、サークルの後輩に原稿を頼んだ事がある。

「恋愛」をテーマにした放送番組の原稿だ。


俺としては、それらしい恋愛のシチュエーションの茶番をいれて、それに5分ほどコメントを入れられればそれでよかった。


想像力が欠如した自分にはそんな茶番はとてもかけそうにないので、とにかく元気だけはある後輩に頼んでみることにした。

今にして思えば、成果物についてアウトラインから決めていくというやり方をとればよかったと思う。輪郭を書いて、それから細部を詰めていく。

反対に、いきなり細部からの議論を始めれば、イメージが合うわけがない。

プロジェクトの教科書に書いてあるような、ダメなプロジェクト進行。

俺のチームは、まさにそれをやってしまった。


そもそも発案者は俺じゃなかったし、ディレクターに割り当てられた俺にはまったくやる気がなかった。多分素案を出したであろう後輩はやる気満々で、なにもかもめんどくさかったので後輩に「やってみて」と一言だけいって数週間が過ぎた。


やってみてとだけ言われて、企画をまるごと投げられた後輩が番組制作締め切りの2週間前に書いてきたものは、それはそれは分厚い設定集だった。


後輩は努力家だった。

努力の方向性ははっきりいってズレてはいたが、本当に細かい設定集だった。

正確に言えば、属性集とでもいうのだろうか。

よくもまあ架空の人物についてここまで属性を並べられるものだと感心するほど、それはそれは細かく、恋愛の登場人物となる男の子と女の子の属性が羅列されていた。

俺は設定から作り込むような創作をしたことがなかったし、おそらく後輩にもなかったのだろう。

血液型がどうとか、好物はなにかとか、身長とか、とにかくあらゆる属性が書き込まれたシートから、キャラクターが飛び出てくることはなかった。


俺からすれば、キャラクターの細かさなんてどうでもよかった。

ほしいのはシチュエーション、それだけだった。

ネタにできるシチュエーションさえあれば、賛否であれ、第三の意見であれ、トークをつなぐことができる。


不思議なことに、それだけ属性が羅列されていれば、シチュエーションも、その時に彼/彼女がどう考えたかも書いてありそうなものだが、後輩が提出した書類のどこをどう探しても、そんなシチュエーションは1つもなかった。


締め切り2週間前。明らかに後輩にまるごと任せた俺が間違っていた。


だが、これは一度白紙に戻そうというには、後輩の努力はあまりに膨大すぎた。

 

結局番組をどうしたかはあまり覚えていない。

シチュエーションから書き直したような気もするし、仕切り直して恋愛アリかナシか?!の○×クイズにしたような気もする。

自分にとっては、あれだけ属性が書いてあっても、キャラクター像がまったく浮かんでこない属性集があまりに衝撃的だった。


人格は、エピソードの集積だ。属性の羅列ではない。

エピソードが属性に集約されることはある。ツンデレとか、ストイックとかそういう表現だ。

でもこれはあくまで、エピソードを記号に落とした結果が「ストイック」なだけであって、「彼はいったいどういうところがストイックなんですか?」と聞かれたら、やっぱりエピソードが必要になるだろう。


エピソード→エピソードから読み取れる性質→「この時もこうするだろう」という予測


代表するエピソードがあって、そこに起因する特徴があって、だから彼は、別のシチュエーションでも、類似の行動を取るだろうという予測が生まれてくる。

こういう予測が群になったものが、他者から見た誰かの人格であり、「らしさ」の原点だ。

 

逆に言えば、自分が周りからよく思われたければ、良いとされる行動やエピソードを集積していくしかない。僕はストイックです!と標榜したって誰も信じないのだ。


昔寮生活をしていた頃の友人に、「俺はショートスリーパーだ」と豪語する男がいた。

この男、夜は11時に布団に入る。

本人曰く、3時に起きて勉学に励むんだそうだが、実際は翌日の昼頃に起きて、みんなでラーメンを食べに行っていた。

当然のことだが、誰も彼がショートスリーパーだと信じる人間は同じ寮にはいなかった。

人格を判断するのは、そいつが何を言っているかではなく、日々何をしているか、ただその行動だけだ。


SNSのプロフィール欄を見ていると、とにかく属性がてんこ盛りになっているアカウントを時々見かける。

SNSの動きは素早く、いちいち1つのアカウントをじっくり見てはもらえない。

だからプロフィール欄で、自分が何者なのかを瞬時にわかってもらう必要がある。


どれだけ属性を並べたところで、1人の人間と接する時、短い期間の間に見せられる側面というのはせいぜい2つか、多くても3つが関の山だ。

時々ちょっと並じゃない人というのはいて、1つ発した言葉からその人の属性や奥行きを感じることはある。

ああこの人は、軍人で、医者で、島根県出身なんだなあとかそういう具合だ。


それでも大抵の人は、短い時間の間にベイシストであり、曲芸師であり、精神科医であることはできない。

プロフィール欄に何が書いてあろうとも、タイムラインを眺め、その人がフェミ運動のツイートを叩いたり、現政権に反対している投稿を目の端で追って、「こういう人なんだなあ」と記憶の隅にとどめておくだけだ。

 

そういう記憶を蓄積することでしか、他者に自分が何者かを認知することはできない。