めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

遺伝子レベルでゼロサムゲーム

 

 

めふぁにっきです。

 

文化や民族は、それ自体が数世代にも渡るゲームを繰り返している 集団であって、グローバル化しようが、時代が移り変わろうが、前の時代にやっていたゲームの名残が少なからず残ってしまう。

宗教、経済体制、政治体制、教育の在り方、配偶者の娶り方、それぞれが文化というゲームの要素で、プレイヤーはその中で生き延び、子孫を残すための特徴的なプレイスタイルを数世代かけて構築する。否、正確にはたまたま構築できたものが次世代をより多く残していく。

それらの生存競争の名残は後の時代に不可解な、時に時代の状況に対して不合理とも思える挙動を見せる。これらをうまく説明しようとして用いられたのが「エートス」と呼ばれる、「前時代のゲームで形成された習慣に基づく行動原理、習性」である。

 

日本は島国であり、生産のゲームとして捉える場合、地理的には地続きの部分は海で囲まれ、閉じた1つの「系」とみなすことができる。

もちろん古代から幾度かにわたって日本は大陸に進出しようとしたこともあったし、日本人傭兵と倭寇は海を行き来し、渤海と交易した時期もあった。決して日本列島が面している海は荒波とはいえ「閉じた」海ではない。

しかし農業生産という点に関していえば、継続して海外から大規模な穀物の輸入があったわけではなく、歴史の大部分を通して国内の決して広くはない耕作可能地を拡張したり、生産性を上げることで賄っていた。16世紀から17世紀には大規模な地形改善と「勤勉革命」と呼ばれる労働集約型の農業生産体制の確立により、以後爆発的な人口成長を遂げた。

 

題に掲げている「遺伝子レベルでゼロサムゲーム」で描きたいのは、この勤勉革命の直後、日本の農業生産高とともに人口も頭打ちになった頃の何世代かについてだ。パイの増えない世界では、労働力と生産力を天秤にかけて、生まれた子供のうち何人かは間引きされ、相続は長子もしくはそれに適すると思われる男子にのみ行われた。相続権のない子は農村でその身分に甘んじるか、「奉公」という形で大坂や江戸といった大都市へ出ていくかという選択を余儀なくされた。

当時世界有数の大都市ではあったが、農村から出てきた彼らの多くは財を成すでもなく、所帯を持つでもなくただ一人長屋の隅で死んでいった。その裏側で遊郭や蔦屋(貸本業)といった独身文化が花開いた。この状況、現代日本にどこか似ていないだろうか。

 

現代日本人の気質の一部はこの時期に形成されたのではないかと考えている。

貨幣経済が浸透しつつあったとはいえ、農村の限られた生産力で扶養できる人数には限りがある。対外的な戦争もない世の中では、生存をかけた競争は外側に向かってではなく、内側へ向けて行われる。

そこにあるのは共食い、蹴落としあい、けなしあいの世界である。閉じられた世界で彼らが戦ったのは「誰がこのコミュニティで生き残る資格があり、誰がないのか」を互いに監視しあう生存競争だったのではないか。

つい100年前には食い扶持のない若者は日本人傭兵として海外へ逃げる機会もあり、山田長政のように異郷の王国で名をあげる道もあったというのに、閉じてしまった国の中で当時の若者はそのあまりに熾烈な国内の生存競争に参加せざるを得なかった。

高度経済成長期に賛美された日本人の勤勉さ、と呼ばれるものはこの頃に培われたのではなかろうか。内部に向けられる淘汰圧から逃れるため、「コミュニティの中で生き残る資格を得るために勤勉さを周囲にアピールする」という形で今に残っているのではないだろうか。

 

 コミュニティの一員を指して彼はここで生きるにはふさわしくない、と判断したときの日本人の集団としての残酷さは際立っている。日本が経済成長という唯一の救いを失い、多くの若者が路頭に迷ったとき、日本人(主には長老に属する部類)が彼らに何をしたか。「彼らは自己責任でそうなったのだ、きっと彼らが怠惰だからに違いない」と切って捨てたのだ。むろんこれは江戸時代の談ではない、つい20年前の話だ。

 

日本人は宗教を持たないとされる民族だが、宗教を信仰する者が異教徒に向ける以上の敵意や無慈悲さを同胞に容赦なくつきつけ、見殺しにし、それを正当化できる精神性を持っている。

現代日本はあいかわらず、20年間国際経済の中でパイが拡大する見込みもなく、ミクロレベルでは再びゼロサムゲームの世界に突入しようとしている。

 

次はどのような理由で同胞に牙を剥くのだろうか。

お前にはこの先生き残る資格はないと、どれだけの若者が告げられるのだろうか。

 

サロン化する世界

 

めふぁにっきです。

 

その昔、西洋貴族が自らの邸宅に音楽家やら学者さんやら、当代きってのイケてる人たちを呼んで、知的な会話や音楽を楽しんでいた。そういう空間を彼らはサロンと呼び、転じて文化人どうしの交流の場や展覧会のことをサロンと呼ぶようになったとか。

 

ここまでほとんど、うぃきぺでぃあに書いてあった話。

 

劇場の発展史やマスメディア以降の芸術のあり方みたいな大げさな話をするつもりはない。でも少なからず「同世代」感覚を抱いてその時代共通の娯楽を享受していた15年以上前と比較すると、現代の娯楽の空間や時間はどんどん細かく、個別になっていって「サロン化」しているんじゃないかという感覚がある。

むしろ人類史の中で娯楽が息づく空間のほとんどはサロンで、マスメディアを介して「テレビ」「ラジオ」「カーステレオ」「スキー場のBGM」のような形で1つの時代の文脈を共有していたここ100年くらいが特殊なだけだ、という見方もあるかもしれない。

かつてテレビが家庭に1台くらいしかなかった頃は「家庭のチャンネルの選択権」なんて言葉があった。家庭で同じ時間に見られる番組はたった1つ。だから家庭の中で誰が優先的にリモコンを操作する権利があるかという話題も昔はあったわけだけれど、そんな言葉がだんだん死語になって、現代ではおじいちゃんも中学生も女子高生も、みんな自分の好きな「チャンネル」を見るようになった。

 

人はチャンネルを取り合うが、チャンネルだって人(視聴者)を取り合う。

 

公共の電波に5~10くらいしかチャンネルがなかった時代なら、視聴者を取り合うのはチャンネル同士の競争でよかった。2000年代のネットの代名詞「2ちゃんねる」だって、「東京では番組の映らないチャンネル」という意味だし、その点では当時のチャンネルの1つでもある。 掲示板やチャットルームといった本来サロンの権化のような文化が、膨大な利用者を取り込んで1つのメディアと認識されるに至った。ネットはチャンネルの一つとして台東市 台頭し、他のチャンネルからユーザーを飲み込んでいった。

同じ文脈を共有していたテレビ世代の名残からか、2000年代は「同時代の文脈」が確かにあった。多分。

 

自作ホームページやブログブームの時代もあったはずなのに、SNSの時代に至ってメディアと、メディアを通じた「同時代の文脈」の分岐は決定的になった。

もしかしたら、本当に決定的な瞬間はなかったのかもしれない。

自分は2010年前後の「ニコニコ動画」や「ニコニコ生放送」の文脈をある程度同世代と共有していたような気がしていたけれど、ひび割れていく氷山のように、徐々に徐々にこのコンテンツ、別のコンテンツと共有する文脈が同じ世代と分岐していったのかもしれない。

YouTubeは人によって別々のレコメンドを出すし、ニュースサイトにしたってそうだ。Twitterもフォローしている人と人がかたまりになって「界隈」をなしている。

ある界隈から飛び出して別の界隈へ行くとそこではまったく知らない世界が広がっている。

 

あくまでも直感だけれど、「誰かと同じ文脈を共有できる媒体」という意味のメディアとしてこれから強くなっていくのは全世界に同じものを共有できる動画サイトやSNSではないと思う。

本当にメディアとしてこれから5年ほどで強くなっていくのは、VRチャットサロンや街場のクラブ、飲み屋、シェアハウスのような「空間的、時間的に区切られた」サロン的空間だと思う。

今までメディアだと思われていた動画サイトやSNS空間はあくまでもサロンでの会話の「タネ」を提供するにすぎない。SNS上の界隈から界隈へと情報や話題は伝わっていくけれど、伝わる界隈によって受け止める文脈はまったく異なる。

元の文脈は再解釈され、切り刻まれ、伝わるはずだった情報さえも元の形を保ったまま別の界隈へと届くかは怪しい。

もはやSNSは情報を媒介するものではあっても、「文脈」を媒介するものではない。

 

マスメディア出現以前にそうであったように、人にとって最大のメディアは再び「場」になり、世界の娯楽はサロン化し、多様化していくのではなかろうか。

 

なんのこっちゃ。(おしまい)

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▲共有される文脈:散々食って痩せられない男

 

 

スタミナゲージがミジンコ並

 

めふぁにっきです。

 

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▲湘南のコンビニに行ったらえげつない名前のサーフボードワックスが売られてて三度見した。

 

このブログも半年くらい書いてきてもう80記事くらいです。

時々読み返すと飯の話と自分がモテない話しか書いてません。

そもそもブログって何を書くところなのかいまだにわからない。

なんか時事ネタとか書けばいいのかな。

以前なんとなくアダルトVRの体験記事とか書いたら妙にアクセスが伸びてビビりました。

 

今年はもっとこう、書いてて自分が好きになれるようなことを書きたいです。

 

昔からなんか書きたい、なんか書きたいなあと常日頃思ってはいるものの、結局何も書きません。書くのはブログだけ。創作の小説ってやつが書けない。

だから大学に入ってしばらくして、書物してる諸君はどうやって文章書いてんだ!書き方教えてよ!と文芸部に入ったはいいが、一向に書けるようにならない。

今考えると当時の自分は「スポーツ初心者が運動部に入ったら、スポーツのやり方を教えてくれる。当然文芸部もモノの書き方を教えてくれるところに違いない!」と勘違いしていた。

 

文芸部はモノの書き方を教えてくれるところじゃない。モノを書くのが好きな人が集まっているところだ。

しかたがないので、どうやったら書けるだろうと部員を観察することにしたが、「書ける部員は書いている部員である」という至極当たり前のことと、なんだかんだ締切がモチベーションに一定の効果を上げていることがわかった。

そうは言っても、プロットを書くとかいってワードを開いたまま腕組みをして固まっている部員もちらほらいたので、モチベーションと設備と時間があればできるわけでもないらしい。

 

ほらやっぱり頭の中に創作を生み出す過程があるんじゃん!頭の中を見せてよ!と部室に居座って原稿を書いている部員の邪魔をしてみた。

そこばかりはどれだけ言語化してもらおうとしてもどうにも要領を得なかった。

 

人間は自分が言語化できる以上にものを知っている生き物だ。

だから、誰かがある技術について「知っている」「できる」からといって、それを人に説明できるとは限らない。

売れるモノが書けるとか、水準の問題じゃなくてとにかく誰かの頭の中で新しい人物や設定が完全に新たに作られること自体が自分には不思議で仕方がなかったし、それができること自体が尊敬の対象だった。

二次創作とか、既存の文脈を借用して、そこから別のストーリーの分流を作り出すのはまだ理解できるけれど、「創作」ということがまったく感覚として理解できなかった。

 

(何かが「できる」という意味での)才能というのは、メソッドの問題じゃなくてそもそも認知レベルで違う場合が多い。数学でペンと紙を使って他人にイメージを伝えるグラフとか図示みたいに、道具の助けを借りて認知が共有できればいいのだけれど、頭の中で新たな何かが生まれてくる過程というのはいまだに言語化しづらいだろうし、今まであまり問題にした人はいない。

ほとんどの書けない人はそもそも書くという発想さえないわけだし、できる人からすれば「紙とペン、ワープロ、なんでもいいけど書けるものと書く場所があれば書けるよ」くらいの感覚だから会話にならない。

それくらい隔絶があると、「書きたいけど書けない人」という救われない人間はどこかで「あ、俺そもそも書く気がないんだ、きっとそうなんだ」とイソップ童話の酸っぱい葡萄を諦めるキツネみたいに、諦めるしかないのかもしれない。

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▲深夜 飯テロ いちご パフェ

 

 

ここは入浴剤ぶちこみまくりの湯

 

寒いので最近は帰宅したら

「入浴剤ぶちこみまくりの湯」

を開業することにしている。

 

夏場とか面倒くさいのでついついシャワー野郎になってしまうのだが、秋口から冬場にかけては熱い風呂自体がQoLを爆上げしてくれるし、なにより冬場限定でくさいオタクが入浴剤のフレーバーになる。

 

少し前から4〜5種類くらいの入浴剤の詰め合わせをローテしているのでとにかく飽きることがない。

 

小さい頃は熱い風呂が苦手で、火傷しそうで入れやしないし入ってもすぐにのぼせる。

いやだいやだ熱いからやめろというのに親は温かいよと熱湯をぶっかけてくる。

 

「江戸っ子は黙って熱い湯にへぇるんだよ」と東京生まれ関西育ちの親父に謎のセリフを言われ、肌がチリチリするのをとにかく我慢して肩まで浸かっていた。

だいたい江戸っ子関連の作法はロクなもんがない。蕎麦だって、ツユに蕎麦の先だけつけて一気に呑み込むのが江戸っ子だというから随分試したけれど、たいしてうまくもないし消化にいいわけがない。

 

田舎もんにマウントするならもう少しマシなものにしろ江戸っ子。

 

そばが食べたい Soba ga Tabetai by Mikeneko Homeless | Free Listening on SoundCloud

▲そばが食べたい(音楽)

 

そんなわけで、中学生くらいになるまでとにかくお風呂が熱くて嫌いだった。

 

今考えると、大人と子供では適温の感覚が全然違うんでしょうな。身体のサイズも体脂肪率も皮膚の厚さも違うから、大人の言う適温は大抵大嘘でいつも熱湯。

 

今じゃすっかり腹に脂の乗った、皮の分厚い大人になったので、あっつい風呂にじっくり浸かるのが大好きになりました。

 

なにより冬場のデブは鍋に入れる冷え冷えのお豆腐みたいなもんである。どれだけ煮えていてもデブが入るとものの5分で湯がぬるくなる。

熱力学第二法則に幸あれ。

 

さらに冬場は湯船もキンキンに冷え切っている。

その上、我が家の風呂には追い焚きという神の機能が付いていないので、「湯船の熱容量」「デブ一人分の熱容量」をちゃんと計算して、熱めに風呂を沸かさないとぬるま湯に浸かることになる。

ぬるま湯に溶けていくちょっと良い入浴剤ほど物悲しいものもない。

 

【楽曲試聴】秘密のそばが食べたい -Midnight Mashup- by Akalyx | Free Listening on SoundCloud

▲抽出された我が高貴なる分子(ダシ)たちよ

 

深夜に富士そばに蕎麦食べに行きたい。

 

 

うましか丼

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めふぁにっきです。

 

最近食べたものをひたすら載せてるだけの飯テロです。

 

ちなみにトップのは馬と鹿の丼です。

メニューには馬鹿丼って書いてあります。

店員さんがオーダー取りに来たので「ばかどん」というのをぐっと堪えて「うましかどん」とオーダーしました。

うましかみたいにおいしかったです。

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焼いた豚、汝の名はやきとん

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地元のバーガーです。

オンツァケス=バーガーという名前が付いていて、これはシベリア原住民の言葉で「うまとシカのようなもの」という意味です。

トーテム信仰でしょうか。

肉は牛です。

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パエリア です。

 

 

耐え難きかな常世の飢え

 

重いだけの自分語りの回。

じぶんかってなことを書き連ねる日記です。

上げちゃってすみません。読むのは止した方が賢明です。本当に。

思いついたら思いついただけ書いてきます。

 

普段あっけらかんと世の中につらみ苦しみなどございませんよというテイで文字を書いている癖が祟ってしまう。どうにも重い話、自分の話、どうしようもなくずっしりした話、そういうものが書けない。

だいたい自分につらいことがあっても「コンテンツ力〜平気平気!」とあっけらかんとしていないといけない空気が漂う世の中で、突き詰めたら昔々フラれたのがとてもつらいですなんて恥ずかしくて格好悪い話、書けるはずもない。

 

でもあえて書かないといけない気がした。

というか腹が減ってるし興奮して寝付けないし、これは書くしかない。

 

恥ずかしいからこっそり書くけれど、ブログなんてのは元来、こういうものかもしれない。

王様の耳はロバの耳と打ち明けられた木のウロのように、王侯貴族の前でならば何を言っても許された道化のように、いつの時代もなんでも言える場や人間が必要とされる。オンラインの時代とて例外ではないのだ。

書きたいだけ書かせてくれ木の穴よ。

 

とにかく空腹で仕方がないので、気を紛らわせようと夜中SNSを漁っていると、最近のSNSは本当に優秀で、知り合いかも?的なユーザーのレコメンドになぜかピンポイントで弟の彼女やら元カノの今彼やらレコメンドしてくる。

アルゴリズムによる学習なら、ある意味では正しい。その手の情報を見る時の人間の執念というのは凄まじく、間違いなくSNSまわりの通信のうち半分は恋煩いとメンヘラと色気違いだ。

なんにせよ先のレコメンドにより見事に私はめでたくメンヘラにカテゴライズされた。

 

もうここまで書いてメンヘラ成分より空腹の方が勝ってきてしまった。まだ1000字も書いていないが我ながら都合のいい性格をしている。

 

ともかくも嫉妬というかショックというか、分かってはいたけれど受け止めたくはない現実を割とはっきりしっかり示されるのは酷だ。

誰に殴られたわけでも一服盛られたわけでもないのに鳩尾からヘソの下あたりまで内臓系の強烈な衝撃が走り、思わず身体全体がビクッと反応してしまう。エクスタシーなんかではない。

これが私の身体に備わっている嫌悪感や恐怖感、不安感をひとまとめにしたような感覚だ。

 

この感覚の連続に自分は数年単位で身体全体を支配されていた。目の前にいない相手の一挙手一投足に怯えて、身体が反応し、強烈な嫌悪感とともに精神が悪化する感覚は独特のものだ。

 

私は自分が無意識に、今自分の身体がしている体験と、自分自身の人格とを切り離そうとしていることに気づいた。

 

どうということはない、別れた恋人には新しい恋人がいて、新しい愛情表現がそこにはあって、当人の脳裏には自分がそこにまだいたかもしれない可能性なんて微塵も残っていない。

書いてみると元も子もなくて面白みもない。

ただその情報が光の形をとっただけで目を介して入っただけで自分の身体が激しい不安感に襲われるなんて。

そんなに人間がヤワであっていいはずがない。

でも間違いなく自分がタフとは程遠い。

自分がこんなにもヤワな存在であることがこの上なく憎い。

 

18だったか19だったか。大学への入学、日本のエリートになるための道を綺麗に踏み外したその瞬間から、今までの自分をきれいさっぱり捨てて全く違う人間として生きることを内心決意していた。別にエリートになろうとしてきちんと努力したわけでもない中途半端な人間だ。

ただあいにくとそのほかの道を歩む普通の人がなんで生きてるのかよく知らなかった。正直今もわからない。

ただ当面自分が生きていくために本当になんでもいいから物語を必要とした。ぶっちゃけカルトでもなんでもよかった。今思えば嘘でもいいから学問の1つや2つまともに収めていればよかったと思う。真人間として生きるというのは決して楽ではないが、それはそれで1つの物語なのだ。

 

もろもろ端折ると、結局私が選んだのはカルトではなく恋愛だった。何かと世の中じゃ恋愛を賛美するが、自分の場合は恋愛というより、他に何か別の物を置いておくべき「生きる意味」みたいなところに、聖なるものとして恋人を縛り上げて崇め奉っていた。

自由気ままに生きたいネコを簀巻きにして、床の間にぶら下げて日に3度拝んでいるようなグロテスクさで、とても常人には耐えられるものではない。

 

相手も相手で問題がなかったとは言わない、今も内心恨んではいる。なにしろ数ヶ月きれいさっぱり無視した後に何事もなかったように連絡を取ってきたりするような人間だ。こっちもこっちで随分とひどいことも言ったものだがお互い様である。

そんな異常な人間が結んでいる異常な関係だから、色々学ぶところもあった。こちら側からの崇拝というスタンスがなければ普通そこまで長くは続かない。

単身赴任で童貞の夫が女子大生だらけの場所で浮気もせず女遊びもせず、ただ返事のくるあてもない連絡先に日々連絡をし続ける日々を送っているようなものといえば気持ち悪さが伝わるだろうか。携帯の通知が鳴れば、別れの連絡か、はたまた何事もなかったかのように優しい言葉が返ってくるのか。その期待で胸が高鳴り腹の底が熱くなり吐き気がしてくる。

もはやストーカーかDVされてる妻か個人宗教の類である。

 

私はこんなことで大学生活をすっかりすり潰してしまった。ブ男が迂闊に恋愛などするものではない。

 

デメリットばかりのように見えるが、反対にメリットもあった。

不真面目が祟って到底卒業の見込みもなかったが、なんだかわからんが女のためなら早く卒業して稼がねばと必死こいて卒業してしまった。

この辺の童貞特有の必死さ加減が元カノにはどうにも受け入れがたく気持ち悪かったらしい。

なんとも救いのない話である。

 

おかげで父親からは「お前がなぜ留年せず大学を卒業できたか理解できない」といわれ

兄弟からは「恋人の1つや2つも作らず、大学でお兄ちゃんは何をしてきたのか」と言われる始末である。

 

実態としては存在するかしないか怪しいラインの個人崇拝の結果、生活はガタガタになったが大学は卒業できたというよくわからない話だ。

 

結局、卒業間際で別れることになったのだが、そもそも何回目かの長期無視の後だったので不思議とショックはなかった。

心の準備として半年ほど前から運動に打ち込むようになったし、そもそもその前は就活でそれどころではなかった。

 

ただ、男の恋愛というのは常にそうだが、離脱症状がとにかく大変だったのである。

まず、自分がされたことを受け入れるのにショックが大きすぎて、「そもそもあんな目に遭ったかわいそうな男は私ではない。」ということにしてしまった。おかげで今でも人にこの話をする時は一通り話した後で、「ひどい話だな!」と自分で話している話に驚くことが多い。

 

自分が崇拝していたものがぽっかりいなくなってしまったので、別のものを崇拝するのにも時間がかかった。

 

他には、異性と接触する時に、決してどんな音楽も、香りも、景色も、情景もエピソードもトリガーになってその異性を思い出すことがないように努めるようになってしまった。

男性に捨てられまくった女性が時折「私恋愛に本気になれないの」なんて言うが分からんではない。心をすべて預ければ傷つくのは自分である。彼女らなりの自己防衛なのだろう。

 

さすがに書きたいことを書きたいだけ書いてたら眠くなった。

ここまで読んでくれたら、拙い話なのに本当にありがとう。

どこまでも自分勝手なので私は寝ます。

 

 

ピットブル童貞説

 

 

めふぁにっきです。

 

何かと旅行することの多い私ですが、ズボラな性格ゆえ、いつもいつも荷造りが前日になってしまいます。

前日の夜にわ〜やばいやばいあれもこれも!って突っ込むんですが、私くらい荷物の整理が下手くそだと万全の準備をすることのメリットよりも大荷物を抱えて移動するデメリットの方が上回ります。

 

そんなこんなで最近は、旅先では財布と携帯と充電器以外は極力何も持たないをモットーにしてます。

移動中文庫本読むだろうとか思って詰めても、重いだけで案外読まないでヨダレ垂らして寝てたりするもんなんです。帰宅してから読まなかった文庫本を本棚にしまう時の悔しさったらありません。

 

あと整理がマジで下手な人間は、カバンに荷物パンパンに詰めすぎて、気づいたらチャック開けっぱなしでした!しかも財布チラ見せでしたとか後から考えると冷や汗もんなことが多いので、身軽に越したことはないのです。

 

最悪パンツとアメニティはコンビニでなんとかなる!!

 

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▲新年明けましてハイネケン

 

記事のタイトルは…特に意味ないんですが、ここ数年私がpitbullというラッパーに勝手につけてる妄想設定です。

ハゲててグラサンでイケイケでスペイン語とか話せるラッパー。

PVにはなにかというとアメリカ人好みのとにかく尻と胸がバインバインのおねーちゃんがたくさん出演してるんですが、あまりにバインバインのねえちゃんと手馴れた感じで踊りまくるので「こいつ一見超遊び人に見えるけど、一周回って童貞なんじゃね?」という説が脳裏をよぎり、以来彼がTwitterで話題になるたびにPitbull童貞説を振りかざしています。

 

ちょうど当時ナオトインティライミ氏のサイコパス説ネタがTwitterで流行っていたので、似たようなものを考えていたらなぜか生まれてしまった脳内設定です。

 

参考記事:『ピツト=ブル氏、今迄に實際に性交に及びたる經験は有るや如何?-或る科學的調査-』

Has Pitbull Ever Actually Had Sex? A Scientific Investigation - Popdust

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こんなこと言ってますがPitbull氏好きです。

もっと楽しいPV撮ってください。