めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

売りに出される関係性

めふぁにっきです。

 

好むと好まぬとにかかわらず、市場経済は個人の財やプライベートの時間を細分化し、自らのうちに取り込んでいく。昔からその流れはあったが、個人が高性能な携帯端末を所持するようになり、アプリという形で技術的な整備がなされたことが追い風となった。

カーシェア、シェアハウス、Uberによる配車サービス、パパ活

車の乗り合いも、数人での共同生活や居候も、パトロンとの逢瀬も昔から存在はしていた。だがほとんどの場合、それらは人間と人間との「関係性」の内側であって時にその間に多少の貨幣が媒介されることはあっても、市場としてオープンにされるものではなかった。

市場の最大の効用とはなにか?それは貨幣という「信用」を通じて全く見知らぬ人間どうしが協力しあえることだ。東京から京都に行っても、十分な額の日本円さえもっていれば基本的には宿泊もできるし、食事もできる。もちろんホテルの経営者や従業員と私は知り合いではないが、そこに取引が成立するのは両者の間に通貨を媒介にして共通の「信用」が前提になっているからだ。

 もし仮にそこに通貨が媒介されていなければ、ホテルの経営者の好き嫌いで私は宿泊を拒否されるかもしれない。通貨を媒介することによって血縁でも地縁でも結ばれていない人間同士が協力関係を結ぶことができているといえる。

 

 市場を媒介として多くの見知らぬ人間と取引できるようになった一方で、人間には市場に媒介されない関係性という別のシステムも存在する。地縁、血縁、婚姻関係、友情、性的関係…それらは貨幣以前から存在している価値交換のシステムだ。信用を司るシステムという意味では貨幣の兄弟だが、より近くのもの、似ているものを強く結ぶ「関係性」のシステムである。

同じ信用を媒介するシステムなので、時に競合を起こす。親しい人物が自分の経営する店に飲みに来た…などである。この場合、知り合いだから料金を安くするなど「関係性」貨幣のシステムの内部に取り込むことで調整が可能である。

 

「関係性そのもの」が貨幣のシステムに取り込まれたら何が起きるのかという話だが、普段ガールズバーで働いている女の子がプライベートで人と話している時、ふと、どうして今この時間にお金が発生しないんだろう…?という考えが脳裏に浮かぶことがあるという。

これはプライベートの中に市場の価値判断が割り込んできたケースである。関係性の範疇にあり、交換の余地がないと考えられていた"プライベートな"行為に市場で取引される価値を見出した時、彼/彼女はどう対応するのか。

 

「なぜお金が発生しないのか?」という想いがそこにある時点で、相手をもはやプライベートの「関係性」には組み込めない他人と認識するのか。

それともあくまでもプライベートはプライベート、仕事は仕事と「時間」で切り分けるのか。

そもそも人間にそんな切り分けが可能なのか。

 

別にガールズバーの従業員だけに起こることではない、家事から相談相手、結婚相手に至るまで外部化されるこのご時世である、そのうち毎月友人から「お友達料金」の請求が送られてくるかもしれない。そうなったとき、一緒に遊んでいる友達にふと「来月からこいつのお友達料金を払う必要があるのだろうか」などと考える日が来るかもしれない。

 

また、貨幣と比較して現代の関係性の弱体化にも着目しなくてはならない。

家庭、親族、友人、地域の共同体など「関係性」が代替不可能なものと見なされていた時代は過ぎ去っている。同じ職場であっても別々の個人として行動するのが良しとされ、そこに代替不可能な「関係性」を持ち込んだり見出したりするのは時にダーティであるとさえされる。

一方で、矛盾しているようだが多くの優良大企業はOB採用や人脈・インターン採用といったコネクションに走り、SNSでも相互フォローにある有名人同士のコネクションが重要視される。伝統的な社会の価値観が壊され、社会の関係性が個人を束縛するとして否定される反面、それを資産として守り続けている人々もいるのだ。

 

今後やってくる時代は、伝統的な「関係性」を財貨の取引なしに持てるものと、金を払って関係性を維持しなくてはならない「関係性」を持たざるものに極端に二分されるのではないか。

 

はー、金持ちのダチになって、友人のよしみとか言って人の金で焼肉が食べたい。