血となり肉となれサムギョプサル
めふぁにっきです。
読んでくれている後輩諸君には「飯テロブログ」と呼ばれているので、
いつものことじゃないかといえばそうなんですが、
ここんとこ飲んで食っての連続であります。(デブ)
酒!酒! デブ飯!
デブ飯!デブ飯!酒!
デブ飯!酒!デブ飯!
いかんいかんと思って慌ててランニングに出かけ、帰宅してコンビニでデブ飯。
本末転倒。
スケジュール帳を確認すれば
来週もめふぁを肥育しようといわんばかりに飲み会がびっしりです。
堪忍してくれ。(デブ~!)
今回は先週 ダチの竹氏と渋谷で韓国飯を喰らいながら話したハナシのメモであります。
サムギョプサルうまいうまい。
ちなみに、肉と野菜は置いておくから客が自分で焼きな!ってスタイルのお店でした。
サムギョプサル(豚バラ焼き肉)の焼き方なんざ知らないので、
遠慮なく店員さんを呼んで
「おねーさん!これってお野菜も鉄板に乗っけて焼くんですか!!」
とか聞いていくスタイル。
これで全国各地のよくわからん郷土料理も美味しく食べてきました。
おねーさんはおねーさんで(いや野菜焼く訳ねえだろ馬鹿かオマエ)という顔全開で
「は…野菜はそのまま…食べちゃってください…」と返してきます。
うん…。ですよね。異文化ムズカシイ。
おねえさん恥ずかしいからマッコリ追加でお願いします。
分厚い豚バラを食みながらの話。
私は現代思想というのをちゃんと体系的に勉強していないので、
まともなテキストの読み方とか正直よくわからないんですが、
SNSで時々見かける論争とか見ていたら段々まともに追うのに疲れてしまいました。
私はこういうのは言論プロレスとか、単にラップと呼んでいるんですが、
20年前なら新刊と朝まで生テレビで喧嘩していた学者さんたちも、
2chで書き散らしてたやたら言語的知性の高い一般人も
みんなネットで一緒くたになって喧嘩するようになって、
囲いとかワナビーとか含めてリアルタイムにバトルが進行するようになりました。
傍でずーっと眺めていると、見てるこっちは段々本題とかどうでもよくなって
世の中には純粋に言論プロレスでマウントするのが大好きな人がたくさんいるんだな…
なんか言及するとすぐ叩かれるから、意見なんか表明するもんじゃないな…。
という気分にここ数年なっています。
そもそもリアルタイムの議論は
即興性とか論点のすり替え能力とか言語のこねくりまわし能力を瞬間的に要求されるので、
そういうシーンになると、
うっわ苦手!ちょっと帰って一晩寝かせていいかな??
言い間違いつつきまくるのヤメて!そんなの屁理屈合戦じゃん!
という気分になるので。要は単純に即興の議論が苦手なんですが。
だから最近は
なにが言論の自由じゃ!殴れば大抵みんな死ぬんじゃ!
大事なのは身体性じゃい!身体を鍛えて原始に回帰じゃ!
みたいなヤケを起こしています。(実態はデブ)
すごく真面目な話を書くと、
よく議論の対象になる
「社会とはなんぞや」「人間かくあるべし!」(言語化されやすい)も、
(うわ~最近太って動くとすぐバテるわ~(言語化されにくい))も、
お、痩せたら街で振り返られるようになった気がする(言語化したい)も、
どれも確かに人間が直面する現実で、世界は複数の現実が重なりあってできていて、
どれか一つだけでできているわけではないんです。
何が言論だ、えらそうに言ったって棒で殴ったら人は死ぬんだ!(身体的な現実)
人を殴ったら法律で罰せられます。(共同体的な現実)
人を殴るとおまわりさんが来てしょっぴかれます。(身体的な現実)
イケメンがこっち見て笑ってくれた!胸キュン!(身体的な現実)
あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するんだろう(他者への想像)
あいたくてあいたくて震える(身体的な現実)
ただ、文明が発展して、SNSもインターネットもあって、
俺らは新たなネット的現実に直面しているんだ!!とかいっても
やっぱり身体はご飯とか眠りとか闘いとか求めるわけで、
まだまだ身体的現実は無視できないんじゃないかなあと最近特に思っているのです。
今日はこのへんで。
▼最近読みたいと思っている本(kindle版がない)
ただ仕えるご主人がほしいだけ
めふぁにっきです。
タイトルは友人の口癖です。
最初は正直「大の男が何言ってんだコイツ」と思ったが、今は完全にその欲求を理解できる。できてしまう。仕えるご主人がほしい。
この場合のご主人っていうのは「婚姻届を出したヘテロのカップルの男」の伝統的な言い方とかじゃないです。
なんというか身も心も預けて安心して仕えることができる概念的な意味での主人。
自分にとって一番権威のない人物は自分自身だと思う。
すごい崇め奉られているどこかの教祖様だって、
自己催眠がとてもうまい人じゃないかぎりは
内心
(なんで信徒たちは俺のこと崇め奉っているんだ…?俺道端でミニスカ見かけたら視線向けちゃうし、夜中にカップ麺とか食べちゃう人間なのに…)
とか思っているかもしれない。
自分のだらしないところ全部知っているのが自分だから、
自分自身が自分にとって一番権威がない。
その点他人を権威として崇めるのはめちゃくちゃ楽。
だって何考えてるかわからないから、信じる側で勝手にイメージづけできる。
「今日も凛々しいお顔!!物思いに耽る姿も素敵!」とか。
本当は(あーパンツが妙な位置に食い込んでウザい…)とか考えてるだけかもしれないけど。人間がテレパシー使えなくて本当によかった。握手会とか怖くていけんわ。
あらゆる信念が片っ端からベールを剥がされ、
次から次へと「あれは迷信でした」「それも昔の人の思い込みでした」ってことにされちゃうのが現代という時代。
テレビの向こう側にしかいなかった芸能人も、スゴイ実業家もみんなSNSとかやってるし、しょっちゅう人間らしい理由で炎上しているし、遠くにいる誰かに幻想を抱いていることも許されない時代。
そういう時代だからこそ、
実はみんなありきたりの事実にはすっかり飽きてしまって
本当は事実なんかよりも心から信じていられる物語を欲しているし、
それと同じくらい心から自分以外の誰かに憧れを抱いたり、権威を感じていたいと思ってる。
昔、10年くらい前、サントリーがスポンサーをやっているラジオで、
「男とデートする時は2回目が狙い時」という話を聴いた。
一度目は互いに相手を見極めるタイミング。
そこでよほど変なことにならず、2回目にデートしようってなったら、
2回目までの間に野郎は妄想で相手を過大評価するから、
女の子にとって自分の株が上がっているのは2回目のデートのとき。
…とかなんとか。
んなわけないだろ。
げ、現代の男女は会う前も会った後も ら、LINEでぴこぴこやり取りするし
なんならそこがホンチャンだぞ。
知らんけど。
1回目のデートでSNSのアカウント把握する。
インスタに上げてる画像の感じで「その子が見せたい自分」を把握する。
フェイスブックで職業、交友関係、素顔(誰かがアップしているタグ付けされた写真は時に盛ってない顔とか撮れる)を把握するでしょ。
ツイッタの裏垢とかフォロー欄お気に入り欄見ればだいたい趣味嗜好思想はわかるでしょ、知らんけど。
ネットの海に個人の情報が散らばってるし、24時間相手に連絡取れるし、
10年以上前と相手に「会わない間」の想いの扱い方って
ガラッと変わってしまったのかもしれない。
相手に会うまで妄想膨らませて、実際に会っている間に会話して自分の妄想と現実の相手をすり合わせるのって昔のコミュニケーション様式なのかもしれない。
「ねぇ 今なにしてるの」ピロン
「既読無視しないで」ピロン
「”画像が送信されてきました”」ピロン
「”スタンプ”」シュポン
逆に考えたらいくらでもメッセージ送れる半日くらいの時間を会わないで妄想膨らませてたって時代の人らすごいな。
平安時代とか会いたくて会えなくてやたら凝った和歌とか作ってたもんな。
あれはあれでSNS中毒なんだろうけど。
完全に仕える主人がほしいって話から脱線してしまった。
誰かに永遠に憧れていたいけど、憧れられる側も楽ではないから、
ワ○ミの社長さんらへんがちょうどいいんだろうな。
「ほーーーらみんなボクのこと遠慮なく崇めていいんだよ!」
って言い切れる人になるのって才能要ると思うし。
でもそっちから我々崇拝者側に媚びてくるとそれはそれで萎えるわ…。
労働万歳。
イケメンの皮剥いで被りたい
めふぁにっきです。
ひさびさに街場を歩くと、いろんな人間が歩いております。
なんか、この雑踏の中じゃ誰も俺のこと知らないんだよなあと思うと
なんだか自分じゃない誰かになれる気がしてします。
都市の魔力というか魅力はきっとそのへんにあるんでしょうな。
イギリスの小噺をひとつ。
とある名のあるジェントリが、彼の地元でボロボロの格好をしているので、
「どうしてあなたのような名士がそんな格好をしているんです?」
と尋ねたところ、
「ハハハ、ここでは私が何者か誰もが知っていますからね。」
一方、同じジェントリがロンドンでもボロを着ているので、またわけを尋ねたところ
「ハハハ、ここでは私が何者かなんて誰も知りませんからね」
と答えたとさ。
ロンドンは、たいてい顔見知りの中世都市とは違って、
人が多すぎて誰が誰やらわからないので、
貴族でなくても貴族の格好をするようになってしまったとか。
身分制がなくなり、大量消費社会が実現するにつれて、
ますます現代人にとってのガワの重要性は高まってきます。
もうブランドをつけていればシグナルになる時代でもないし。
ああめんどうくさい。
もはや人間の形で人に会うのなんかやめたい。
俺自身の素体がブ男だとかこの際どうでもいい。
こんな想いをするくらいなら
いっそ正四面体のポリゴンかなにかにでもなってしまいたい。
▲「めふぁにっきです。今回は正四面体になってみました。」
ただ自分じゃない誰かに化けるのは好きなんですよね。
どなたか正四面体に化ける方法があれば教えてください。
正四面体になったボクが
山手線の改札に引っかかっているところを見かけたら助けてあげてください。
(書いてて思い出したけど『おやすみプンプン』に主人公が正四面体になる描写あったな…)
いやでもなるなら立方体は嫌でしょ。円柱も違うでしょ。球体も違うし。
だいたいよさげな形はどっかで使われてるもんなんだよ。
オタクハウスをおったてたい
めふぁにっきです。
海外旅行から帰ってきてカネがねえ
酒の飲み過ぎで体力がねえ
二日酔い抱えて目が覚めたら
ナニも悪いことしてないのにケツと内股が筋肉痛という3重苦の中生きてます。
初の海外旅行の話はどこかでまた書きます。
最近断捨離断捨離ィ!!つって服ばかり捨てていたら
とうとう着られる服がなくなりました。
特に下半身デブ化が止まらないのでなおのこと着る服がない…
年末お洋服予算確保しますので誰か選んで…
▲原因
オタクハウス作りたいな~~という願望が最近ふつふつ湧いてきます。
男子寮時代、みんなで朝から晩までわいのわいの生活するのが楽しかったので、
そういう生活ってオトナになったらできないもんなの??おかしくない?
と不満に思いながら生活してます。
一応さらっと調べてみたらギークハウスとか出てきたけど…
どんななのかな???一回住んでみようかな??
「もくもく会」(プログラマが会議室とか借りて作業する会)の住居版なのかな…?
結構わくわくするコンテンツなのでちょっと調べてみます。
うーん書くことがない
アタマがカラダに同期してません(『私はすでに死んでいる』)
めふぁにっきです。
移動中の読書が習慣になってまして
『私はすでに死んでいる』という世紀末なタイトルの本を今日読み終わりました。あべし。
私が「私」だと思っているもの。
私が私であるという実感。
あまりに当たり前すぎて普段ことさらに考えもしない、自分が自分であるという「感覚」は一体どこから生まれてくるのか?
その問いを突き詰めていくと、1つの仮説が浮かび上がってくる。
脳は世界を認知する時に受送信デバイスである身体の動きを予測して、脳が捉える「現実」と身体の動作とをシンクロさせようとする。脳のこのはたらきが「自分」という感覚を作り出している。
ではこのはたらき(=システム)が何らかの形で「バグ」を起こす時、人間が「自分」を捉える心のはたらきはどう「バグ」を起こすのか?
というようなお話です。
事例や示唆が本当に多くて、何回か読みたい一冊です。
最近フォロワーのつぶやきやいくつかのやりとりの中で、
「そもそも人間は自分の中に自他を区別できる人格をいくつか抱えたりできるものなのか?」
とか
「まず自他ってどうやって区別されてるんだ?」
というようなヘンな疑問が湧いたので本屋で見かけて読んでみました。
▲ああ^〜 あまあまで脳が喜んでるんじゃあ
最近フラっとパスタ屋に入って
「どMパスタ」なるパスタを頼んだんです。
辛党を自認する男として一口目から辛いとは喚かないだけのプライドはあります。
「ふっ…まあほどほどの辛さでちょうどいいネ」
くらい気取ってたんですが
どMパスタやべぇっすわ
誰がこんなもん食うんだってくらい辛い。
最後涙目になりながら完食しました。
激辛ってのは脳内麻薬の分泌を誘発するらしいですな。
あとでどうにも頭がふわふわしてしまって、完全にラリってました。
自分というものは一貫して連続して生きているものだとみんな信じているけれど、
満腹で苦しくてアブラまみれで二郎食ってる自分と
家に帰って脳内麻薬でふわふわしてる自分と
後日「オススメのラーメン屋があるんだよ、こんど行こうな?」と他人を沼に誘い込もうとしている自分は、全部一貫してると見せかけて実はバラバラの自分なのです。
二郎食ってる苦しい自分→経験する自己
ラリってる自分→経験する自己
後日、二郎に行く体験を「苦しいけれど素晴らしい体験」というストーリーに再構築する自分
→物語る自分
経験する自分と物語る自分は別物なので
どんなに途中で経験する自分が苦しんでも
最後に脳内麻薬が出る体験をしてしまうと、物語る自分は「あれは苦しかったけれど、結果良いものだったなぁ」と記憶を良い方向に再構築してしまうそうな。
ブラック部活・企業とかも
「センパイにどつかれまくったけど!最後の大会後みんなで抱き合って泣いて最高の経験だったっす!!」みたいに、うまいこと「物語る自己」のストーリーを良い方向にコントールすることで間の過程を肯定したがる気がします。
小説家のO.ヘンリも書いてるけど、DVダンナが嫁ボコボコに殴った後はやたら優しくなってなんでも買ってくれちゃうもんね!
そんなわけで私も走った後はごほうびにお肉を食べるわけですが……
ふと考えたら
これって要は「物語る自分」に餌付けしてるだけなのでは??
一時期、OLが「自分へのご褒美にスイーツ❤︎」してるのをバカにする風潮あったけれど、あれもあれで、ちゃんと頑張った後にスイーツ食べてるのなら実はれっきとした自己育成の過程なのでは??
参考:
TED(ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎)
https://www.ted.com/talks/daniel_kahneman_the_riddle_of_experience_vs_memory/transcript?language=ja
Oヘンリー『ハーレムの悲劇』
http://www1.bbiq.jp/kareha/trans/html/harlem_tragedy,_a.html
秋の夜長をひた走れオタク
めふぁにっきです。
▲人類が生んだ神秘の立方体、汝の名は糖質。
だんだん心が折れそうになってきたのでちょっとランニングをしてきました。
夏場走ると「暑い!!」と「痛い!!」が交互にきて、
しまいには汗で背中が濡れて蒸れてシャツが張り付いて気持ち悪くなってしまい、
「暑い!」「痛い!」「息苦しい!」「きもちわるい!」
のオンパレードになっちまいます。
この季節は走るのには最高です。
「暑い!」と「きもちわるい!」が気温に排除されるので
純粋に「痛い!」「息苦しい!」だけを楽しめます。
だんたん走っているうちに目がトロンとしてきて、気持ちよくなります。
この時期、みんな考えることは同じみたいで、
ランニングスポットに行けばそこそこの人が走ってます。
ウォーキングの老婦人、デブ、体育会系おにいちゃん、タンクトップのおねえさん、デブ、デブ…
みんな走る痛みを楽しんでいるんだなあと思うとワクワクしてきます。
結構普段から走り込んでいるであろうお姉さんとか
スタイルが素敵で、まとめた髪がリズムカルに揺れて
いつまでも後ろを走っていたいんですが、運動不足のオタクの体力ではどんどんと差をつけられ、いつのまにか後ろに体育会系おにいさんの鼻息が迫ってきます。
日が短くなってきて、朝目が冷めたらまっさきに思い浮かぶクソ寒さに追われ、
この時期の社畜はメンタルがだんだん余裕なくなってきます。
人間って自分で思っている以上に自分の思い込みの中で生きてしまいがちなので、
頭のストレージはなんやよくわからないモヤモヤでパツンパツンになってます。
そんな社畜ともやもやに襲われた大学生に朗報なんですが、走りましょう。
・自分のペースよりきもち早めに走ること
・ゴールが決まっているコースを走ること
・足のはやい美人を見かけたらとにかくガン見して追いかけること
この3点さえ守っていれば最高の秋ランニングができます。
「ころしゅ」「つらみ」「かえりたい」「休みたい」
等々の泣き言は頭から消え去り、
代わりに
「おねえさんきれいやなあ」「足痛い」「ゴールまだかな」「あ、抜かされた」
以外のことは何も考えられなくなります。
頭のストレージに溜まったゴミデータを処理して、スッキリして帰宅しましょう。
ちなみにこの時に注意しなくてはならないのですが、
帰宅時はオンラインであれ、オフラインであれ、異性との接触を避けてください。
やたら気持ちよくなっているので、この状態で異性と不用意に接触すると、
ふいに恋に落ちたり、脳が誤学習を起こして
「あ!この人と接触するときもちよくなるぞ!!」
と変な刷り込みを起こしたりします。
ただし、お勤めの諜報機関からの任務で、どうしてもタイプじゃない女性に接触して偽装結婚しなきゃいけない人とかはぜひ応用してみてください。
秘宝館デートがしてみたい(東山彰良『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』)
めふぁにっきです。
ふと、この前福岡の書店に立ち寄ったら
やたらめったら長いタイトルの本があったのでついつい買ってしまいました。
http://hon-hikidashi.jp/enjoy/42069/
▲ほんのひきだし 東山彰良さんインタビュー記事
ものすごく生々しく福岡の若者が描かれていて、そうそうこれこれ!!こういう生々しいの読みたかったんだよ!って感じでした。
生々しいといっても、
モテない男の子ならいやというほど知ってる現実をコミカルに描き、
モテねぇのも利用されんのも、どうしようもねぇもんは、どうしようもねぇんだよ!!という潔い諦めというか「現実への敗北宣言」をしている感じ。
重くも鬱でもなく、一汗かいたような心地よい汚さ。
『Angel beats!』を観て予備校に入り、
『四畳半神話大系』を観てとりあえず大学に入ったものの、とにかく大学生というのは快楽に溺れる猿のように滑稽で欲望にまっすぐで汚くて、この物悲しい生き物を描いてる作品はないものかと思っていたらまさにこれでした。
ちょっと作中の若者ブランド品を持ちすぎてて音楽映画に詳しすぎる感じはするけど。
本を閉じた時に
「うっわ…ロクな女が出てこねぇわ…」
という感想が出てきて、
それと同時に
ロクでもないのは女の子の方なのか?
ひょっとしてそのロクでもない生き物をモノにしようと四苦八苦してるオスの方がよほど滑稽なんじゃないのか??
と考えさせられます。
私の大学4年間は
どうして女の子は男の子にそんなひどいことをできるの??
ひどいよ!反省してよ!同じ人間とは思えないよ!
と叫び続け、男の子を誑かす悪い女の子を口汚く罵り、糾弾し、隙あらば制裁しようとすることに費やされてしまいました。
でも今大学生の日常を突き放して見てみると、サカりのついた年頃のオスどもがキャンパスなんてところに押し込められて、暇にまかせて年中女の子のことばっかり考えたり、頼まれもしないのに勘違いして惚れた腫れたしてるの
は実はものすごくコミカルな絵面なんじゃないか?と思ってます。
日本有数の好色文化のど真ん中で(偏見と言われようとも、日本でも稀に見るヤリチン文化だと声を大にして言います。)モテ男の陰で、性の悦びに食いっぱぐれてる若いオスの滑稽さと、そんなオスの思惑に関係なくしたたかに打算的に自由に生きる"女の子"の性と聖がぐちゃぐちゃに混ざり合ったイメージとのコントラストが、現実の辛さと気持ち悪さを通り越して痛快です。
さて、これで福岡舞台の青春系作品は「ドグラ・マグラ」「博多豚骨ラーメンズ」「セカチュー(諸説あり)」「女の子の(略)経っていた。」となったわけですな。
最近のきょうだいの会話
めふぁ「東京の大学生になりたかった」
妹者「なればよくない?」
めふぁ「あのね、お兄ちゃんは東京の大学生になってね、なんかサークルで作った彼女と夏休みに熱海とか箱根とか軽井沢とかそれっぽいところに旅行にいきたい人生だった」
妹者「」
あの、熱海の秘宝館っての行ってみたいんですよ、女の人と。
女の人とってのが大事なんですよ。
一人で行ったらなんか辛そうじゃないですか。一人ディズニーの方がまだいけるわ。