めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

アタマがカラダに同期してません(『私はすでに死んでいる』)

 

めふぁにっきです。

 

移動中の読書が習慣になってまして

『私はすでに死んでいる』という世紀末なタイトルの本を今日読み終わりました。あべし。

 

私が「私」だと思っているもの。

私が私であるという実感。

あまりに当たり前すぎて普段ことさらに考えもしない、自分が自分であるという「感覚」は一体どこから生まれてくるのか?

その問いを突き詰めていくと、1つの仮説が浮かび上がってくる。

 

脳は世界を認知する時に受送信デバイスである身体の動きを予測して、脳が捉える「現実」と身体の動作とをシンクロさせようとする。脳のこのはたらきが「自分」という感覚を作り出している。

ではこのはたらき(=システム)が何らかの形で「バグ」を起こす時、人間が「自分」を捉える心のはたらきはどう「バグ」を起こすのか?

 

というようなお話です。

事例や示唆が本当に多くて、何回か読みたい一冊です。

 

最近フォロワーのつぶやきやいくつかのやりとりの中で、

「そもそも人間は自分の中に自他を区別できる人格をいくつか抱えたりできるものなのか?」

とか

「まず自他ってどうやって区別されてるんだ?」

というようなヘンな疑問が湧いたので本屋で見かけて読んでみました。

 

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

 

 

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▲ああ^〜 あまあまで脳が喜んでるんじゃあ

 

最近フラっとパスタ屋に入って

「どMパスタ」なるパスタを頼んだんです。

 

辛党を自認する男として一口目から辛いとは喚かないだけのプライドはあります。

「ふっ…まあほどほどの辛さでちょうどいいネ」

くらい気取ってたんですが

 

どMパスタやべぇっすわ

誰がこんなもん食うんだってくらい辛い。

最後涙目になりながら完食しました。

 

激辛ってのは脳内麻薬の分泌を誘発するらしいですな。

あとでどうにも頭がふわふわしてしまって、完全にラリってました。

 

自分というものは一貫して連続して生きているものだとみんな信じているけれど、

満腹で苦しくてアブラまみれで二郎食ってる自分と

家に帰って脳内麻薬でふわふわしてる自分と

後日「オススメのラーメン屋があるんだよ、こんど行こうな?」と他人を沼に誘い込もうとしている自分は、全部一貫してると見せかけて実はバラバラの自分なのです。

 

二郎食ってる苦しい自分→経験する自己

ラリってる自分→経験する自己

後日、二郎に行く体験を「苦しいけれど素晴らしい体験」というストーリーに再構築する自分

→物語る自分

 

経験する自分と物語る自分は別物なので

どんなに途中で経験する自分が苦しんでも

最後に脳内麻薬が出る体験をしてしまうと、物語る自分は「あれは苦しかったけれど、結果良いものだったなぁ」と記憶を良い方向に再構築してしまうそうな。

 

ブラック部活・企業とかも

「センパイにどつかれまくったけど!最後の大会後みんなで抱き合って泣いて最高の経験だったっす!!」みたいに、うまいこと「物語る自己」のストーリーを良い方向にコントールすることで間の過程を肯定したがる気がします。

 

小説家のO.ヘンリも書いてるけど、DVダンナが嫁ボコボコに殴った後はやたら優しくなってなんでも買ってくれちゃうもんね!

 

 

 

そんなわけで私も走った後はごほうびにお肉を食べるわけですが……

 

ふと考えたら

これって要は「物語る自分」に餌付けしてるだけなのでは??

 

一時期、OLが「自分へのご褒美にスイーツ❤︎」してるのをバカにする風潮あったけれど、あれもあれで、ちゃんと頑張った後にスイーツ食べてるのなら実はれっきとした自己育成の過程なのでは??

 

参考:

TED(ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎)

https://www.ted.com/talks/daniel_kahneman_the_riddle_of_experience_vs_memory/transcript?language=ja

 

Oヘンリー『ハーレムの悲劇』

http://www1.bbiq.jp/kareha/trans/html/harlem_tragedy,_a.html