めふぁにっき

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属性の叩き売り

昔、サークルの後輩に原稿を頼んだ事がある。

「恋愛」をテーマにした放送番組の原稿だ。


俺としては、それらしい恋愛のシチュエーションの茶番をいれて、それに5分ほどコメントを入れられればそれでよかった。


想像力が欠如した自分にはそんな茶番はとてもかけそうにないので、とにかく元気だけはある後輩に頼んでみることにした。

今にして思えば、成果物についてアウトラインから決めていくというやり方をとればよかったと思う。輪郭を書いて、それから細部を詰めていく。

反対に、いきなり細部からの議論を始めれば、イメージが合うわけがない。

プロジェクトの教科書に書いてあるような、ダメなプロジェクト進行。

俺のチームは、まさにそれをやってしまった。


そもそも発案者は俺じゃなかったし、ディレクターに割り当てられた俺にはまったくやる気がなかった。多分素案を出したであろう後輩はやる気満々で、なにもかもめんどくさかったので後輩に「やってみて」と一言だけいって数週間が過ぎた。


やってみてとだけ言われて、企画をまるごと投げられた後輩が番組制作締め切りの2週間前に書いてきたものは、それはそれは分厚い設定集だった。


後輩は努力家だった。

努力の方向性ははっきりいってズレてはいたが、本当に細かい設定集だった。

正確に言えば、属性集とでもいうのだろうか。

よくもまあ架空の人物についてここまで属性を並べられるものだと感心するほど、それはそれは細かく、恋愛の登場人物となる男の子と女の子の属性が羅列されていた。

俺は設定から作り込むような創作をしたことがなかったし、おそらく後輩にもなかったのだろう。

血液型がどうとか、好物はなにかとか、身長とか、とにかくあらゆる属性が書き込まれたシートから、キャラクターが飛び出てくることはなかった。


俺からすれば、キャラクターの細かさなんてどうでもよかった。

ほしいのはシチュエーション、それだけだった。

ネタにできるシチュエーションさえあれば、賛否であれ、第三の意見であれ、トークをつなぐことができる。


不思議なことに、それだけ属性が羅列されていれば、シチュエーションも、その時に彼/彼女がどう考えたかも書いてありそうなものだが、後輩が提出した書類のどこをどう探しても、そんなシチュエーションは1つもなかった。


締め切り2週間前。明らかに後輩にまるごと任せた俺が間違っていた。


だが、これは一度白紙に戻そうというには、後輩の努力はあまりに膨大すぎた。

 

結局番組をどうしたかはあまり覚えていない。

シチュエーションから書き直したような気もするし、仕切り直して恋愛アリかナシか?!の○×クイズにしたような気もする。

自分にとっては、あれだけ属性が書いてあっても、キャラクター像がまったく浮かんでこない属性集があまりに衝撃的だった。


人格は、エピソードの集積だ。属性の羅列ではない。

エピソードが属性に集約されることはある。ツンデレとか、ストイックとかそういう表現だ。

でもこれはあくまで、エピソードを記号に落とした結果が「ストイック」なだけであって、「彼はいったいどういうところがストイックなんですか?」と聞かれたら、やっぱりエピソードが必要になるだろう。


エピソード→エピソードから読み取れる性質→「この時もこうするだろう」という予測


代表するエピソードがあって、そこに起因する特徴があって、だから彼は、別のシチュエーションでも、類似の行動を取るだろうという予測が生まれてくる。

こういう予測が群になったものが、他者から見た誰かの人格であり、「らしさ」の原点だ。

 

逆に言えば、自分が周りからよく思われたければ、良いとされる行動やエピソードを集積していくしかない。僕はストイックです!と標榜したって誰も信じないのだ。


昔寮生活をしていた頃の友人に、「俺はショートスリーパーだ」と豪語する男がいた。

この男、夜は11時に布団に入る。

本人曰く、3時に起きて勉学に励むんだそうだが、実際は翌日の昼頃に起きて、みんなでラーメンを食べに行っていた。

当然のことだが、誰も彼がショートスリーパーだと信じる人間は同じ寮にはいなかった。

人格を判断するのは、そいつが何を言っているかではなく、日々何をしているか、ただその行動だけだ。


SNSのプロフィール欄を見ていると、とにかく属性がてんこ盛りになっているアカウントを時々見かける。

SNSの動きは素早く、いちいち1つのアカウントをじっくり見てはもらえない。

だからプロフィール欄で、自分が何者なのかを瞬時にわかってもらう必要がある。


どれだけ属性を並べたところで、1人の人間と接する時、短い期間の間に見せられる側面というのはせいぜい2つか、多くても3つが関の山だ。

時々ちょっと並じゃない人というのはいて、1つ発した言葉からその人の属性や奥行きを感じることはある。

ああこの人は、軍人で、医者で、島根県出身なんだなあとかそういう具合だ。


それでも大抵の人は、短い時間の間にベイシストであり、曲芸師であり、精神科医であることはできない。

プロフィール欄に何が書いてあろうとも、タイムラインを眺め、その人がフェミ運動のツイートを叩いたり、現政権に反対している投稿を目の端で追って、「こういう人なんだなあ」と記憶の隅にとどめておくだけだ。

 

そういう記憶を蓄積することでしか、他者に自分が何者かを認知することはできない。

うまく嘘をつく法

人を呪わば穴二つ。

あるいは、コトダマと呼ばれる事象がある。


呪いの言葉は必ず我が身に返ってくる。


スピリチュアルなニュアンスでなしに、言葉を経由した毒には必ず反作用がある。

これはなぜ起こるのか。


言葉には2つの側面がある。

一つは、個体間での情報伝達。

「愛してる」とか「あそこにライオンがいてあぶないです」とかそういうやつだ。

そしてもう一つは、忘れがちだが、個体内部での思考プログラム構築だ。

「あそこにライオンがいて危ない」と思考している、この思考プログラムそのもののことだ。


ほとんどの場合、この2つは共通したイメージ体系・言語体系で紡がれる。

内部に存在しないイメージや言葉を吐き出すことはできない。

むろん、支離滅裂な音の羅列を発声することはできるが、この場合個体の外側でも内側でも音の連なりが意味を紡ぐことはない。


なにか嘘の情報を他人に伝える時、発信者は一度その情報を自己内部で「解釈」しないといけない。それが理解であれ肯定であれ否定であれ、一度は自己プログラムのどこかを通過させることなく発信することはできない。


嘘、偽り、呪いの言葉をリアリティをもって相手に伝えるのであれば、自己内部で一度その感情や論理を再現しなくてはならない。怒りの演技をする者は、自らの内部に怒りを起こす必要がある。

同じ感情、同じ論理体系、同じ言葉を用いている限り、送信と受信とは表裏一体である。


多くの表現は、自己解釈を経由し、そこから身体やメディアを通して表出する。

また、大変奇妙なことだが、表現から自己解釈が生まれることもある。

(元気な動作をしていると元気な気がしてくるような事象はだいたいこれだ)


自らを通して表現をする限り、自らを通過する思想が送信者自身にまったくなんの影響も与えないことはありえない。時間的に継続するかはともかくとして、発信するためには必ず一瞬、自らの思考の中にその解釈を受け入れる必要があるのだ。


嘘のリアリティを高めたければ、これは非常にかんたんで、自らがその嘘を心から信じ込めば良い。

嘘を「信じている側」と「嘘だと知っている側」で世界を二分する時、

一番うまく嘘を付く方法が「信じている側」に自らを寄せることだというのはなかなか奇妙な話である。

だから時々、『嘘を信じている自分』から帰ってこれなくなって、自分がついている嘘と本当の違いがわからなくなってしまう人間が出てくる。

こうなってしまうと本人には何が嘘か真かわからない。

おそらく小規模ながら我々の日常にも頻発していることだ。自覚がないだけで。


呪詛にしても同様だ。

誰かを疲弊させたり、困憊の後衰弱させてしまうようなリアリティあるイメージを誰かに伝えるには、発信者自身もまたその高いリアリティを経験する必要がある。

そしてこれが反芻を伴い、「帰ってこれなくなる」レベルのトラウマ級のリアリティであった場合、食らった人間はただでは済まないが、発した人間もまた無事では済まない。

逆にいえば、そこまで高いリアリティを経験できない人間は幸運で、想像もできないし送信もできない。代わりに自家中毒を起こすこともない。

革表紙

駅前にある大型書店で手帳を選んでいた。

数年単位で手帳を使っていると、それなりに自分なりの使い方やルールができてくる。

自分の手帳は自分以外見ないものだし、誰かに共有するものでもない。

日曜始まり、バーティカル、カレンダー形式、分刻み…日常で使いこなすほどに、手帳に染み付いたじぶんルールは凝り固まっていく。

1月始まりで、メーカーも型番も決まっている俺は表紙の色とデザインくらいしか悩むポイントがない。


たかが表紙の色なのだが、妙に悩んでしまう。

別に持ち物の色合いを気にするほど洒落た人間ではないはずなのだが、1年間変えられないとなると妙に優柔不断になる。平積みになった手帳コーナーの前で10分が経過しようとしていた。


「まだ決まらないの?先にレジ行ってるよ?」

ふいに後ろから長谷川先輩が声をかけてきた。


「やー、表紙で悩んじゃってですね。」

「さくっと決めればいいじゃん。こんなの何選んだって変わんないってあとからわかるよ。」


サークルの忘年会の集合時間より1時間早く来てみたら先輩がうろついていた。

早く来すぎちゃったよ、寒いしさ、ちょっと書店で時間潰そうよと言われるままについていった。

入口付近は寒いが、さすがに大型の書店は暖房に金をかけていて暖かい。


「そういえば今年の手帳買ってなかったね!」

先輩は手帳の平積コーナーに着いて2秒で目についた手帳をカゴに入れた。

そのまま先輩は専攻する社会学の洋書棚に直行した。

洋書を3冊くらい抱えて戻ってきた先輩は、まだ手帳一冊決められない後輩の姿を見て半分呆れていた。


「なんか、先輩は悩みどころとかないんですか、結構手帳って中身の形式とか、デザインとかで使い勝手変わるじゃないですか。それを1年使うんですよ?なんかもう少し悩みませんか。」

ベージュと紺の革表紙を右手と左手に持って、うーんと唸りながら先輩に訊いてみる。


「正直、毎年さくっと決めちゃうから、使い始めてみて使い勝手違うなってなることあるよ。でも、たかだか1年くらいの付き合いなんだから別によくない?って思っちゃうな、私は。」

なるほど、と言って俺はまた迷う作業に戻る。

長谷川先輩、さすがです。

手帳と彼氏を同時に変えるとサークルで呼ばれている女だけあって、意志決定が大胆です。


「いやーさすがだね」

いきなり人の心を読んだかのように先輩がボソっとつぶやく。

「なにがですか」

「今年の夏合宿、同期女子3人くらいからフラグ建てられてたのに、秋を過ぎても誰とも付き合ってない男は手帳を選ぶのも優柔不断なんだなーって」

うるせえ。

「うるさいですよ。」

タメ口をこらえた俺を誰か褒めてほしい。

「しかも中身は同じようなのを表紙の色だけで悩むとこまで一緒なんだね。面食い〜。」

「うるせえ」

「あー、いいのかなそんな口利いて。銀杏伝説って知ってる?いちょうが散るまで恋人いなかったら4年間そのままらしいよ?」

「我が校のシンボルは常緑針葉樹ですんで。散ることがありませんから。」

「いつまでも青いままってか。」


あまりにうるさいので思い切って紺色の革表紙を選んだ。


翌年、新年早々に部室で手帳を取り違えた。

長谷川先輩が2秒で選んだ手帳と、俺が10分かかって選んだ手帳はまったく同じデザインだったのだ。

ついでにいうと、たまたま開いた手帳の書き込みで、先輩が年の瀬に習慣通り彼氏を変えたことも知ってしまった。

 

 

 

一発逆転症候群の会

人生には波がある。

どれだけ真面目にやっていたって、

どうにもうまくいかなくなる時だってある。

それは誰に訪れるかわからない。


人間、いい時は誰しもいい人だ。

人が真価を問われる瞬間というのはいい時ではなく、ダメな時だという。


ダメな時に一番自分を苛むのは、実は周りにいる誰かではなく、自分自身だ。

 

普段から他人を馬鹿にして、内心でマウントをしている人間は、いざ自分がダメな側になった時、誰よりも自分自身から馬鹿にされることになる。

人生がうまくいっている時にこの症状が表面化することはない。

他人に優越感を感じられる限りは精神が安定しているからだ。


しかし、一度人生の谷に差し掛かると、途端に足取りがおぼつかなくなり、谷底へ転落していく。

こういう手合にとって、周囲の人間に助けを求めることは、必要な手立てではなく、自分をよりいっそう惨めに思わせる演出になりうる。


だから彼らは助けを求めない。


なにがなんでも独力で再起を図ろうとする。

ある種の物語に毒されているのか、幼いころから仲間に恵まれなかったのか、他人に力を借りることをよしとしない。

ひょっとすると、マウントを取る癖が過ぎて、自分が見下せる人間としか付き合っていないのかもしれない。そうなればなおさら、付き合いのある人間に助けを求めることは、本人の中では間違いなく恥だ。

 

世の中には本当にうまくできている。

一風変わった人間がいるなら、そういう人間のための落とし穴がちゃんと掘られている。


Youtuber、アフィリエイト、新進気鋭のクリエイター、株で一発当てて億万長者。


別に悪いとは言わない。それで成功している人だっている。


かつてはフリーターや、有名ブロガーと呼ばれる人もいた。

いつの時代にも、地道なルートとは別の、抜け道みたいな道が存在している。

でもこういう道には別の側面があって、一発逆転を夢見た若者の死骸の上に成り立っていることを忘れないほうがいい。

 

普段から他人にマウントをして生きている人間の目には、人生がマラソンのように見えている。成功に向けて道は一本しかなく、成功に近いかどうかしかこの世に軸は存在しない。


ラソンの最中に、ふと足を挫いてしまうことがある。

少し休んで、また走り出せばいいだけなのだが、マウントに囚われた人間の思考はそうではない。


自分が今からどれだけ走ったって、自分と一緒に走っていたやつらに追いつくことはできないかもしれない。

自分はもっと先を走れるはずなのに、足を挫いた遅れを取り返すことは決してできない。

そして、一緒に走っていた周りの奴らは、落伍した自分をみて笑うだろう。


自分のペースで走るという本質的な問題解決よりも、今自分が負けているという事実のほうが気になってしかたがない。


そういう心の持ち主に、一発逆転の落とし穴は甘く囁く。


1000人に1人しか選ばれないかもしれないが、特別に君だけを先頭集団のところに導いてくれる抜け道を教えてあげよう。

君を置いていった他の誰よりも圧倒的に成功者になれる抜け道だ。

実際に成功者はいる。君もきっとそうなれる。


そうして若者は出口のわからない抜け道へと誘い込まれていく。

 

抜け道は実はこんな仕組みでできている。

成功者がいるというのは本当に嘘ではない。

しかし、世の中には、参加者が少しだけ幸せになれるゲームと、数%の上位者がほとんどの分け前を持っていってしまうゲームが存在する。

そして抜け道は後者のゲームだ。


抜け道は常にたくさんの生贄を欲している。

若くて、向こう見ずで、認められたい。

リスクにも無駄な努力にもめげない若者が無数に犠牲になって、やっと1人か2人の成功者が得られる。そして成功者が呼び水になって、さらなる犠牲者が誘い込まれる。


一発逆転症候群の人間の抱える問題は2つある。

1つは、独りで生きようとすること。

もう1つは、プライドが高く、他人を見下して生きていること。


人間1人の能力というのはどこまでいっても1人分の能力しかない。

だから、人間としての強さは、どれだけ多くの人間と協力できるかにかかっている。

卵が先か、鶏が先かわからないが、他人を見下すが故に他人と協力できず、協力できないがゆえに、無理を自力で押し通そうとする。


なんだかんだいっても抜け道の中で成功する人間も、仲間がいて、とびきり面白くて、別にどこにいってもやっていけるようなやつがほとんどなのだ。

どうしても好きなことがあってその道にいくのならそれはとてもいい選択だろう。


周りを出し抜いてやろうとか、誰の力も借りずにビッグになってやろうとか、そういう心が少しでもあるのなら、抜け道に入り込むのはやめたほうがいい。

 

 

パターンおじさんの生涯

若いうちは感性が鋭い。

頭もはっきりしていて状況判断も上手だ。

 


臨機応変な対応もできる。新しいものに順応もできる。今までの見方をガラッと変えることもできる。

 


でもその鋭い認知は、いくつになっても維持されるものではない。

もちろん例外はある。

金さん銀さんだって割と晩年まで頭はハッキリしていた。

そういう血統に生まれたか、天に愛されているか、よくよく養生していたか。

とにかくそういうGiftをもらえる可能性はある。あくまで可能性の話だ。

 


大抵の場合は鋭さを失って、パターンにハマりこんでいく。

その恐ろしい現実を頭の片隅に置いて歳を重ねた方が良い。

今日はそんな話。

 


祖父の話を書く。

祖父は、80いくつの晩年まで、かなり頭ははっきりしていた方ではある。

今思うと、頭がはっきりしていたのか、それとも「頭がはっきりしているパターン」を再現するのが上手だったのかよくわからない。

 


祖父は社交的な方で、スピーチをしたり、人と食事に行くのが好きだった。

孫としちゃとてもありがたいパターンで、おかげさまで飯屋によく連れて行ってもらった。

飯は肉を好む。戦後アメリカに留学して肉が好きになったらしい。

そして彼は経済学者なので、値段は効用を反映していると信じて疑わない。だからメニューを開くと「肉」かつ「一番高いもの」を選ぶ。このパターンがブレることはない。

 


そして飯を食べたらそれがなんであれ「うまい!」という。まあだいたいつも店で一番高い肉を食ってるのでうまいのは経済学者的に言って間違いじゃない。

「うまい!」という言葉を発するのには自分の気持ちの表明以外にも効用がある。

飯を作った祖母が喜ぶ。

レストランなら給仕が喜ぶ。

ひょっとしたらシェフも聞き耳を立てているかもしれない。

 


おそらく彼が若い頃に学んだパターンだろう。だから食事の時には必ず「うまい!」と言うのだが、晩年になってこの言葉を発するタイミングがズレてきた。

本来食べてから「うまい!」というのだが、食べる前に「うまい!」といってしまうのだ。味覚に対する反応ではなく、タイミングよく発している社交辞令であることがばれてしまった。

「食べてから言いなさいよ!」

そう言って祖母は怒った。

 


食事が終わるとおもむろに財布を取り出す。

得意げな顔をする。

だいたいこのあとのセリフは決まっている。

"It's my treat"

または

"Be my guest"

のどちらかだ。

要するに飯を奢るぞ(ニヤリとそういうわけだが、本当にいつも決まったセリフをいうのだ。

 


人間は一体いくつまで学び続けられるのだろう。

そしていくつまでなら自分をアップデートできるのだろう。

 


それが何歳かはわからないが、ある日ある時新しく学ぶことはできなくなって、それまで積み重ねてきた自分の行動のパターンだけが残るのかもしれない。

そしてそれは老いてみないと分からないし、パターン化してしまえばもはや、老いた本人には分からないかもしれないのだ。

 


老いてなお笑っていたければ、今のうちに笑うパターンを刻むしかない。

太く短く生きるんだという人は、今この瞬間を気ままに生きればいいかもしれないが、少し考えてほしい。

 


もし長生きしてしまったらどうする。

 


現代社会で長生きする確率は決して低くはない。

そしてそれは、かなりの人が老いと向き合わなくてはならないことを意味する。

老いとは、臨機応変な対応ができなくなり、過去を反芻するようになることだとしたら、これは哲学的な問いではなく、現実的な問いだ。

今からでも遅くないから良いパターンを積め。来世の功徳のためではない、数十年後の自分のためにだ。

 


ちなみに祖父にとって最後の数ヶ月の話だが、彼の意志がはっきりしているうちにと、危篤に陥った場合の延命措置の意思確認をした。

意識が低下してもなお、自分の生命が継続することを望むかどうかを紙切れにサインする実に残酷な選択だ。

 


彼は経済学者だった。

 


意識がなくなれば延命措置を打ち切るという残酷な文面を前にした彼は、たった一言呟いた。

「リーズナブルだね」

そして彼は今まで幾度も繰り返してきたパターン通りに署名をしたためた。

墓守の毎日

人間はよく忘れる生き物だ。

あまりに忘れっぽすぎて、自分が忘れていることさえ忘れている。

 


そこそこ長く生きていれば、精神に傷を負うことはある。

 


手酷い失敗をしたこと。

裏切られたこと。

ひどく恥をかいたこと。

 


その一つ一つを人は割と覚えていない。

いや、覚えていないのではなく、主体的に忘れているのだ。

前に進むために、自分を好きでいるために、自分にとって都合の悪い事実は主体的に忘れていく。

 


臥薪嘗胆(がしんしょうたん)なんて言葉がある。

古代中国の王様たちが、負けた屈辱を忘れまいと、薪の上で寝たり毎日にがい肝を舐めたりしたそうだ。

 


昔この話を知った時、まだ子供だったけれどなんだか少し変な気がした。

そんなことをしなくっても、負けたことが本当に悔しいのなら覚えていられるんじゃないか。

 


大人になってしまったからよくわかるけれど、大人は自発的にいろんなことを忘れている。いっときの自分が二度と負けるまいと思ったからと言って、寝て起きて翌日になったら忘れている。

 


なんでおれはあんなにムキになっちゃったかな?

今考えたらそうでもないや。忘れよ。

 


そして何日も経てば、嫌なことがあったことさえ忘れてしまう。

万事こんな具合だ。

 


逆に考えれば、いちいち嫌なこと、悔しかったことを細かく記憶しているようでは、ふつうの精神はもたないのだ。

死ぬほどでないなら嫌なことは忘れる方が健全なのである。

 


人間は忘れる生き物である一方、実は被捕食者としての側面もある。

長い長い歴史の大半で、人間は被捕食者だったのだ。

虎に食われ、熊に食われ、弱っていれば鷹にも喰われる。

 


被捕食者は、食われる恐怖がDNAに刻まれている。そうじゃなかったやつは皆死んだから。

細かな嫌なことは忘れても、生存を脅かすような恐怖は身体レベルで覚えているのだ。

「むかつく」「虫酸が走る」「生理的に無理」

苛立ちや恐怖の表現の最上級は、身体的な反応に行きつく。

 


脳は忘れっぽいけれど、身体は結構物覚えがいい。心身症やトラウマというのは、強烈な情念が心を突き抜けて、身体レベルの記憶になってしまったケースだ。

 


覚えたいことがあるなら、頭より身体に覚えさせた方が長持ちする。

臥薪嘗胆というのは、硬い寝床や苦い味覚をトリガーに、記憶や情念を保持しようとするライフハックのことなのである。

なぜならば脳はびっくりするくらい忘れっぽいから。

 


あの日に屈辱を受けた自分は、その記憶や情念の風化と共に死んでしまう。

嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、俺はやるぞと一念発起した日でも、その日の自分を忘れたくないのであれば、習慣や行動に刻んでおくべきだ。

記憶は風化する墓標のようなもので、繰り返し繰り返し、上書きを続けなければならない。

そこに刻まれた故人の名前はかすれて読めなくなり、やがて何も無かったことになる。

人形は舞台から降りられない

 

「アイドルって、楽曲とか演出とか色々あって初めて成り立つわけじゃん。」

「そうだね」

「逆に言うと、その前提がなくなっちゃったらアイドルではなくなってしまうって意味でそこに悲しみを覚えるんだよね」

 

その文脈でいくと、と前置きをしてから持論を展開する。

自分のアイドル観には「依代」というイメージが前提になっている。プロデューサーという陰陽師がいて、紙切れに過ぎない人形(ひとがた)にかりそめの魂魄を込める。

吹き込まれている間だけは人形は生きているかのように振る舞い、魂魄を通じた術師とのつながりが切れると、人形は元の紙切れへと戻っていく。

 

近年のアイドル観は、アイドル自身の主体性に軸を置き、人間としてのアイドルにフォーカスを当てているものが多い。それは表現者は主体的であるべしという、現代思想と芸術の間で結ばれた暗黙の協定でもあるのだろう。

 

だからこそ、『ステージママと子役』という主題は芸能の世界ではありふれてていながらも、現代社会においてあるべき表現者の型からは外れている。それでいて、最も優れた表現者はその中から生まれてくるだけに、彼らの存在は常に矛盾を孕んでいる。

 

結局のところ、幼い頃から特殊な訓練に耐えて、特殊な環境で育ってきた彼らを「長い下積み時代」などと呼び、「自ら表現の壁に挑み続ける者」というストーリーにすり替えることで主体的な表現者という現代社会のタテマエにうまく取り込んでいる。

そしてショービジネスに欠かせない観客もまた、彼らの長く苦しい下積み時代もまた演出として受け入れ、喝采するのだ。

 

あえてそんなところも踏まえた上で、アイドルをプロデュースする人間こそ真の表現者と規定し、プロデューサーの意図を忠実に再現する秀でた依代、つまりアイドルを敬意を込めて「人形(にんぎょう)」と個人的には呼んでいる。

 

「じゃあ、めふぁこにとって本当に見たいのはプロデューサーの表現であって、アイドルというのはある種のインターフェイスにすぎないってことだね」

「そうなるね」

 

依代というより、自分のイメージはイタコに近いかもしれない。

演劇であれ、総合芸術であれ、すべては第四の壁に隔てられた、現代では数少ない聖別された領域で起こることだ。そこに立つ者は俗世におけるあらゆる業を捨て去って、フラットになる。

「良い役者は『作れる』役者じゃなくて、フラットになれる役者だ」

演劇を長年やってる人間からそんな話を聞いて、霊媒師みたいだなとその時はぼんやり思った。人間としての本来の人格を仕舞い込んで、別の表現、別の人格を受け入れる身体をスタンバイさせる能力。

それが役者と霊媒師の共通点なんじゃなかろうかとふと浮かんだ。

 

「個人的には、めふぁこのいう人形がどっかの時点で人形じゃいられなくなって、それでも芸能界に居残ろうとするアイドルとか見てると悲しくなるんだよね」

「人形として育てられたのに、若さ以外の理由で人形でいられなくなるタイミングがきっとあるんだろうね」

「それでも、他の生き方を知らないから芸能界のどこかには居場所を見つけ出そうとしてしまう、それをはっきり見てしまう瞬間が悲しいんだ。」

 

舞台に上がることを目的に作られた人形は、檜の舞台から降りて生きる術を知らない。

そして社会は主体的な表現者であれと言外に命令し続ける。