めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

情報の海でビート板

 

めふぁにっきです。

 

日本語でいう「情報」という言葉は、集約されすぎた言葉というか、かなり幅の広い言葉である。英単語であればdata(情報)、information(情報)、intelligence(≒情報)に相当するニュアンスが日本語の「情報」には含まれる。

流石に最近ではintelligenceはインテリジェンスと訳されるが、やはり日本語の範囲では単語として区別されず、ゆえに日本語による思考でも区別されることは少ない。諜報の方面では馴染みの深い言葉ではあるが、日常で用いられることは少ない。

どんな言語でも、単語の区分はその背後に想定されている非言語的な世界観を反映する。つたないかもしれないが、日本語でその背後にある世界を記述してみる。

妙なことを書くと英文科の読者に後でしばかれる。

 

先に述べた3つの「情報」はdata,information,intelligenceの順で「人間にとっての解釈の深さ」が進んでいく。解釈が進むと「情報」は人間にとって意味のあるものへと純化していく。これらの区分は世界に霧のように漂う情報を集め、純化し、意味のあるものにしていくまでの過程を表現している。

また一方で漠然とした霧のようなものを集め、純化し、「意味のある部分を切り取る」行為は、同時に「意味のある部分以外を切り捨てる」ことでもある。何かを選び取ることは、何かを選び取らないことでもあるのだ。

 

この世界にはノイズを含めた無数の信号で溢れており、その一部だけでは人間にとって何の意味もなさないし、何らかの判断の根拠になることもない。ただ漫然とそこに横たわっている事実、これがdataである。現代ではセンサーや端末、あるいは人間の五感を通してdataが世界から同時にあらゆるところで取得されている。

次に、dataを何らかの形で「切り取り」、人間にとって意味のあるものにする。すなわち何らかの形で加工され、人間にとって意味を成す形にしたものがinformationである。

 dataはただ漫然とそこにある事実に過ぎない。統計であれば、dataは個々の要素の数字の羅列である。多くの要素を漫然と眺めて何事かが判断できればいいが、大抵の人間の脳はそうはできていない。

数多ある要素の集団を1つのグループとみなし、集計するなり掛けるなり割るなりなんらかの操作を経た上で「この要素の集団はある尺度で測るとどれくらいなのか?」に対する1つの答えが統計量である。集計された結果そのものには、もともとのdataにはあったはずの、個々の要素に関する「情報」は備わっていない。

処理に伴って欠損したといってもいい。

大きな意味を取る代わりに、それ以外の細々したものは捨てざるを得ないのである。

 

そうして初めて人間にとって意味のある、人間の脳の能力で処理できるサイズのinformationとなる。事実に対して尺度や基準といったモノサシを当て、集約され、選択されてはじめて浮かびあがるものがinformationなのである。

 

informationをさらに集め、比較、評価し、行動や戦略の判断の根拠となるまで純化された「情報」がintelligenceである。そうざっくり言ってもよくわからないが、intelligenceには必ず判断や行動の意思決定を下す主体が存在する。意思決定を下すためには、現状主体が置かれている状況を把握しなくてはならない。

敵がどこにいるかわからない戦場に指揮官とその軍隊がいるとしよう。

指揮官は敵そのものに直接遭遇することなく、敵の居所を掴まなくてはならない。

戦場では直接の戦闘以外にも様々なことが起き、指揮官の耳に無数の「情報」が入る。それは敵の偵察かもしれないし、味方どうしの喧嘩かもしれないし、「水鳥が急に飛び立つのを見た」という証言かもしれない。決定的に敵と遭遇しない限り、「敵がどこにいるか」あるいは「敵の数はどれくらいか」に関する「情報」は断片的であり、精度もバラバラであり、まったく嘘の情報も含まれているかもしれない。

そもそも敵などその戦場にはまったくいないかもしれないのだ。

 

この時、指揮官はすべてのinformationの間に優先度をつけ、捨てるものと取るものを選び、決して揃うことのないパズルのピースから全体像を浮かび上がらせなくてはならない。必要以上の先入観は間違った像を結ぶことに繋がりかねないが、まったく何の仮説もない中ではinformationを並べたところから何も得られない。

この綱引きのような営みの中で下される判断の根拠となるような「情報」のあり方がintelligenceである。

 

さて、ここまで世界における人間と「情報」の関わり方について書いた。

これからの世界における人間と「情報」について考えていきたい。

 

電子計算機、コンピュータの出現によって、人間は膨大な補助演算能力を獲得した。

電算機以前、「コンピュータ」とは人間の計算担当者を表す言葉であった。人間が自然からdataを取得し、informationを抽出する営みはすべて人間の脳の演算能力の範囲に収まっていたのである。

それからほどなくしてセンサーが生まれ、世界中に普及し、ネットを通じてセンサーが集めたdataが手に入る時代がやってきた。dataは各所でinformationに集約され、現代人1人1人のもとに届く。

しかしコンピュータが生まれ、センサーが世界中にばらまかれるまでの間に人間の脳の演算能力はほとんど変化していないのだ。地球のどこかで生まれ、たえず流れてくる情報を取り込むために睡眠時間はいくぶんか短くなったから、処理能力はむしろ落ちているかもしれない。

現代人に足りていないのはinformationではなく、無数の情報の海の中で「こうするべき」「こうあるべき」を総合的に決定する能力である。古代から変わっていないとしても、現代では情報の奔流の中で相対的に能力が落ちているのだ。

そうなった現代人はどうするのだろうか。

人工知能が解釈のための補助装置になってくれるかもしれない。

敵か味方かはわからないが。

今まで通りまた人間にメガネやスマホ以上の補助装置がついて、人間ver2.0(β版)にアップデートされるだけという考え方だ。

 

あるいは「正しい情報」を一方的に教えてくれるカルトのおじさんについていった方が幸せかもしれない。

彼もまた敵か味方かはわからないが。

 


キュウソネコカミー「ファントムヴァイブレーション」PV

スマホはもはや俺の臓器