めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

お前はすでにサイボーグ

 

めふぁにっきです。

 

キュウソネコカミの『ファントムヴァイブレーション』という曲の歌詞に、

スマホはもはや俺の臓器」という歌詞が出てくる。

正直そんなに詳しいわけでもなかったが、大学の後輩がカラオケで歌っていてなんだこの歌詞は?!と気になったので知った。

 

生物としての人間のスペックの個体差は、実は想像以上に小さい。

個体として肉体が強いといっても、大抵3~4人の成人が本気で取り押さえればカタがつく。だから人間は道具を使って自身の能力を拡張してきた。

他の個体と協力したり、武器を持ったりして力を補強し、すぐに消える記憶を粘土板に書き留めることで自分の存在を時間的に、馬に乗って遠くへ移動することで空間的に拡張した。銃の登場以降は短期的な戦闘力の個体差は著しく小さくなり、(それまでの剣や槍が、熟練と体力のハードルが高かったことを考えると銃のデザインは画期的なものだった)人間はさらに強化人間の道を進んできた。

 

文明の歴史は人間強化の歴史であり、現代に至ってはもはや外部デバイスがなければ人間ではない。メガネがなければ近眼の人間が視覚障害者になるように、文明への参加は強化デバイスの使用が前提になっている。

歴史において国家や個人の勝敗を決したのは種族としての人間の能力差ではなく、強化人間としての差異である。

騎馬戦の時代には、装備と馬と訓練に金をかけられる貴族が戦闘における花形であった。生身の貴族が種として優秀だったのではない、強化人間として優秀なものが貴族だったのである。戦闘においては多数の銃を装備した人間を指揮した方が、少数精鋭の騎馬部隊よりも有効であることが明らかになって以来、貴族は「戦闘に特化した強化人間」としての地位を失っていった。

 

一昔前の家には必ず電話と電話帳があり、社会がそれを前提にして回っていたように、スマホが今は個人にとって必須の強化デバイスになった、ただそれだけの話である。

だからこそ「スマホは俺の臓器」なわけだが、さきほどの話に戻ると、道具としてのスマホは「銃」に分類されるだろうか、それとも「騎馬」に分類されるだろうか。

 

道具のデザインには、万人にすぐに使えるデザインと、熟練にコストがかかるが、熟練すると凄まじい能力を発揮するデザインとがある。だからさきほどの話で言えば万人にすぐに使えるのが「銃」で、熟練を要するのが「騎馬」だ。

アップルは、直感的なデザイン志向で誰にでも使える製品を目指している。

だから製品としてのスマホは間違いなく「銃」に近い。

知識のあるなしにかかわらず、金を支払えば誰でも使える。

 

だが、スマホというハードを通して提供されているソフトの数々を使って人が何をするか?という点に着目すると、スマホはむしろ「騎馬」に近い。これはインターネットやSNSの性質と親しいところがあり、「誰にでもアクセス可能」だが、実際にそれを使ってなにか能力を得ようとする段階になると激しい個体差が生まれるのだ。

 

Google検索一つとってもそうだが、誰が開いてもあのGoogleロゴは利用者を平等に受け入れてくれる。変なフィルターがかかって低所得者にだけ「現在、検索が大変込み合っています」表示がされるとかそういうことは決してない。

ところが、使う人によって検索サービスから得られる情報の量と質はまったく違うものになる。

それゆえに、スマホという強化デバイスにアクセスしている人は多数だが、スマホを活用してより強い強化人間になっている人はごく少数というギャップが生じる。

ここにアプリやプラットフォームビジネスが生まれる余地が生じるのだ。

 

そうしてスマホにアクセスしているだけの「弱い」強化人間から、道具を使って力を取り出せる「強い」強化人間へとカネや情報が流れる。

スマホやインターネットとはそういう強化装置である。

アプリやサービスを作っている「強い」強化人間よりもさらに強い強化人間は、AppleStoreとかいう鬼のような仕組をスマホを通してリリースできるような人間である。「弱い」強化人間から「強い」強化人間へとカネが流れる構造を作ると、あとは勝手に「強い」強化人間が集まってきて便利なアプリをどっさり作ってくれる。

アップル社は雇用契約も結んでいないのに、アプリ制作者や企業は朝から晩まで必死こいてアップルのためにアプリをリリースしてくれる。本当によくできている。

 

本当に人間を強化人間たらしめるものは、デバイスによる能力拡張なんかじゃなくて、「人をコキ使う才能」の方なのかもしれない。

 

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▲1人で焼肉を食う才能

 

 

選択肢より正解を

めふぁにっきです。

 

今とても喉が渇いていて、飲み物を買おうと思ったとする。

道端でおいしいミネラルウォーターを売っている人がいたので、水を買うことにした。

 

ところがあたりを見渡すと、他にも水を売っている人が何人もいて、どの水もパッケージや謳い文句が違っていて、それでいて魅力的だ。

そうはいっても全部の水を買うことはできない。せいぜい1本か2本の水を飲めば、もう飲みたくないと思うことだろう。ここにいたって、どの水を買うのが正解なのだろうか。

 

選択肢の中から1つを選び出す時、1つなら悩む余地はない。

2つなら少し迷うが、2つのうちどっちが好みか考えればいいだけだ。

3つならどうだろう?

こうして選択肢の数を増やしていくと、もともと何を得ようとしていたかよりもよりよい選択をすることの方に関心が寄せられていく。

人間の脳の容量の問題もある。

そもそも100個も選択肢があったら、選択という行為そのものが成立しない。

もし1つを選んだとしても、それはたまたま自分が手にとったからであり、選んだ本人にとってはあまり自分で選んだという気はしないだろう。

 

自分で選んだという実感を持ちつつ、そんなに選択そのものに悩まされない選択肢の数は、個人差もあるだろうが、だいたい3前後だという。

 

選択肢がないのは嫌。自分の意志で選び取りたいけれど、たくさんあると選び疲れる。あまりにたくさん選択肢があると選んでないのも同然になってしまう。

人間は選択肢の数に対しては案外ワガママなのだ。

そう考えると人間が考える「偶然」とか「必然」の区分なんて、突き詰めるとそんなことなのかもしれない。

 

いたるところでサジェストされまくる現代社会に生きていても、人間の脳みそは数百万年間ほとんど変わっていない。Tinderで延々スワイプし続ける男の子を見ていると、もうそんなにスワイプしてたらもはや選んでなくない?と聞いてみたくなる。

選ばれてはいるかもしれないけど。

なんかマッチングアルゴリズムが動いていい感じにマッチさせてくれるとかいうのでとりあえずスワイプし続けている。もはや選ぶってなんだっけ。

 

それでも「自分が選択した」という体験は結果に対する満足度を大きく左右する。

こうなるとマッチングも売買も、モノの良し悪しはあまり関係がない。

一定以上保証する仕掛けと、なんか良いマッチングができてそうなゴタクと、あたかも本人が選んだように思わせる演出さえあればそれで人は満足する。

アルゴリズムだかAIだか知らないが、中身はサイコロでもいいし、最悪何もなくても成り立つ。賽の目であれ、クジであれ、AI(笑)であれ、なんとなくアウトプットが偶然の産物っぽい仕組は古代から神事にはつきものなのだ。

 

別にAIの中身がサイコロでも乱数生成でもマシンラーニングでも大差なんかありゃしない。御神託を受ける側からすれば全部ブラックボックスだし、最初に自分が恣意的につくった選択肢の中からあたかも「自分の意志を超えて」選んでくれる仕組がそこにあれば満足する。

 

ギリシアの信託の中身だって硫黄吸ってラリってるばあちゃんだし、なんかこの際「新世紀のAI」を謳って、ラリったおじさんの独り言とサイコロで占いとかやったら流行るかもしれない。多分地下賭博かなんかで捕まる。

より合理的な選択肢を選ぶにはどうすればいいのか、人間は最近そればかり考えてきた。でもどこまで合理的になろうと努めたって人間の選択には限界がある。

それよりも、当人があたかも選び取ったかのように演出し、「えらいね、君は賢いからそうやっていつでも”正解”を選び取れるんだね」と思わせてくれる仕組の方が人間には向いているのだろう。

 

それが科学であれ、宗教であれ、賽の目であれ、もはや洗脳してくるパートナーでもいいのかもしれない。どれだって構わない。

 

 

追い詰められてもブロックできない

 

めふぁにっきです。

 

小学校から高校まではいじめがよくあるのに、大学に入るとすこし減り、会社に入るとまた起こるようになる…。これは精神的に未発達な子供に特有の問題などではなく、高校や会社といった組織が持つクラスや職場といった閉鎖的な空間の設計がいじめを生んでいるのだ。

以上のような説明をTwitterで見かけたことがある。

 

ソースはともかく(忘れた)私はこの言説には大部分で賛成である。断っておくが、大学や、そのほかの閉鎖的なクラスを持たない組織でまったくいじめが起きないわけではない。もちろんいじめには加害者の特性や、背景となる社会の文化や状況が必ず存在しているだろう。

そのことは踏まえた上で、どうして閉鎖的な空間設計の中にある組織では、いじめのような実に閉鎖的な人間関係のトラブルが起きやすいのだろうか。そこを考えていきたい。

 

空間の設計はその中で活動する人間どうしのコミュニケーションのあり方を決めてしまう。だから大前提として、物理的な距離が閉鎖的なら、人間関係も閉鎖的になる。

心理的な関係性は物理的な距離に左右されるし、そのまた逆もありうるのだ。

だからこそ人間は常に他者との心理的な距離感を無意識に計り、同時に物理的な距離感を適正な位置に調整している。このことにフォーカスすると、人間には「関係性に応じた適切な物理的距離がある」ということがいえる。

要するに「親しい人間とは近しく接し、そうでない人間には遠巻きに接する」というごくごく当たり前の話だ。

 

ただ、この距離は文化や個人によって差が激しい。

インド人は前の人にピッタリくっついて列に並ぶが、北欧では数m離れて並ぶとか、文化によって人の並び方の間隔の違いが出るというのはここに起因する。

同じ日本人でもなんとなく「コイツ距離感近いな…」という人は時々いるだろうし、その逆(遠い)もあるかもしれない。

 

本当の意味で自由な空間があれば、お互いの関係性や心理的距離感に応じていくらでも調整ができる。妙に距離が近いやつがいればどこまでも逃げていける。

「ミュート」や「ブロック」に相当することを自由な空間ではいくらでもできるのだ。声が聞きたくなければ相手の声がミュートできるくらい遠くまで行ってしまえばいい。

 

ところが、学校や職場といった空間はそうはいかない。

席は一定間隔で並べられ、時に隣の人間は選べない。他人と好きに距離を置けたとしても最大20分の休み時間の間だけである。

また、どちらも日本ではある種の同質化を求められる組織であるがゆえに、常になんらかのモードを演じ続けるというストレスがかかっている。加害者であれ、被害者であれ、一日8時間も同じ人間と同じ距離感で役を演じてその場に居続けなければならないというストレスは同じなのである。

 昆虫を高密度で虫かごに詰めると(田舎育ちは経験があるかもしれないが)時々共食いをする。昆虫と人間の生態をあまり区別していない自分としては、昆虫に起きることで、人間でも似たようなことが起こるというのは直感的にそんなに変だとは思わない。

個人的には7年くらい土の中に引きこもりたい。

 

都市生活ができるくらいに群れることへの耐性が人間は高いと思われているけれど、それは法律とか社会のようなある種の虚構と暴力によって保たれているだけであって、生き物としての人間は、狭いところに押し込められていろんな個体とストレスなくやっていけるほど上等なものじゃないのかもしれない。

 

このことは掲示板全盛期(いにしへのみよ)には「スルースキル」と呼ばれ「アンチや粘着といった嫌なものを自分の関心から遠ざけて相手にしない」、極めて特殊な個人的才能でしかなかったものが、SNS時代になってほとんどのソーシャル性のあるサイトにはブロックやミュートとして標準装備されたことと無関係ではないだろう。あぼーん

ボタン1つでスルースキルが手に入らなければ、人間は激しいストレスを他者への攻撃や自己否定に向けるしかなくなる。

 

様々な人間がいて、もちろん嫌な人間、関わりたくない人間もいるリアルの空間で、人が取れる逃避行動は、嫌なものから距離を置いて、できる限り記憶から消し去ることだ。

 

そのためにこそ人間は無意識に対象との距離を常に計り、自分の記憶に都合よく生きる能力を獲得したのだ。「あのひとでなし!絶対許さない!」と言う人はいるが、実際に当のひとでなしを許せないからどうにかしてしまった人よりも嫌だから距離を置いてしばらくしたら忘れてしまった人の方が多いはずだ。

本当に全部律儀に嫌なことを覚えて反芻していたら人はストレスで身動きができなくなってしまう。

 

そんな世の中だからこそひとでなしが刺されることもなくのうのうと生きていけるということもあるのだが。

 

誰が加害者か、誰が被害者かという問題ではない。

もし追い詰められてもブロックできず、記憶をどれだけ書き換えてもストレスから逃れられない時、窮鼠でなくとも猫を噛んだり、暴力に訴えたり、マウントして精神の均衡を保とうとしたりするのだ。

「追い詰められる」と書いているが、本当に大したことではないのだ。

現実世界にはブロックもミュートも実装されていないから、たわむれに相手を消そうとしてみた、ただそれだけなのだ。

 

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▲実装された大人のミュート機能(のむタイプのまほう)

紀伊國屋がなかったら死んでいた

 

めふぁにっきです。

 

10代の頃、秋口になると気分が憂鬱になって、学校を休んだり、不安で眠れない夜が続くことがよくあった。父親とは仲が良かったので、父親に相談してはいたが、彼のアドバイスは自分にはあまり参考にはならなかった。

といってまったく話にならないわけではなく、

「きっとそれは季節性の抑鬱状態だ。」

「俺も10代の頃はよく悩んでいた。」

などと割と物分りの良い父親だった。父親の職業は教師で、10代が精神的に不安定な年齢であることを理解もしていたし、慣れてもいた。

ただ、彼のアドバイスは基本的に「かつて自分がどうやって乗り越えたか」に根拠があるので、人によって、というより普通の人間にはまったく参考にならないのである。

 

父親は、10代の頃から現在にいたるまで極度の語学オタクであり、本の虫でもある。

これが、彼がどうやって10代の精神的に不安定な状態を乗り越えたかということの答えでもある。友人の少ない10代を過ごしたという父親の友人は、常に本の中にいた。

彼が言うには、数百年以上前に生きた頭のいい人間と本を通して対話することができる。関西の都会で育った彼は、よく紀伊國屋書店に古代の偉人と対話しにいっていた。

紀伊國屋がなかったら俺は自殺していたかもしれない。」とまで言っていた。

それゆえに彼は主観的にはまったく孤独ではなかった。

紀伊國屋が父親の命の親なら、自分は間接的に紀伊國屋に命を救われていることになる。ありがとう紀伊國屋

 

そして彼はとにかく語学にハマった。兼好法師が好きで、古語を学んだ。唐の漢詩を読むため、漢文の読み方を覚えた。高校生にしてラテン語の辞書を嬉々としてめくった。

彼にとって語学は手段に過ぎなかった。

誰かに会いにいくとき、飛行機や、新幹線に乗っていくように、彼が古代や外国語の書物の中にいる人に会いに行くときは、彼が生きていた頃に話し、書いていた言語をしっかり学んで会いにいったのだ。

 

さて、思春期の私にとって父親のアドバイスの何が参考にならなかったのか。

 

全部だ。

第一に語学の才覚がありすぎる。ギフテッドだと言ってもいい。

語学の才能がある人の中には、猛烈な孤独と引き換えにその才能を手にしている人がいるのは知っている。だが、ベースとしてある種の才覚が必要になるのも事実だ。そのような才能が多少は遺伝するにしても稀有すぎる。

第二に、田舎に生まれ育った私にとっては、都会との文化資本の格差はあまりに大きすぎた。実家から最寄りの丸善まで行くのに2時間はかかる。いまやAmazonがどんな僻地へも書物を届けてくれる時代になったが、やはり古典と呼ばれるような書物がすぐに手に取って読める場所が近くにあるというのはいまだに偉大なことである。まさに「紀伊國屋がなかったら自殺していた」という状況は田舎にこそあったのである。

 

ただ1つ、参考になったことがあるとすれば、

「生者であれ死者であれ、誰かに出会い、もっと知りたいと思う世界の広がりを感じること」が孤独の特効薬であると知ったことかもしれない。

結局、私が孤独に苛まれて死なずに済んだ理由は、インターネットだった。インターネットを通していろいろな人と交流した。

田舎の外には広い世界がある。そこにはいろいろな人がいる。

まだ人生に絶望するには早い。

そういう場所に行って、いろいろいは人と話してみるまではまだ生きてみてもいいんじゃないか。

そういうポジティブな考えを抱くのに、インターネットを通じて人と交流するのは十分な効果があった。

 

若者は孤独に直面してよく不安に苛まれる。社会的に曖昧な立場だからかもしれない。

ホルモンバランスみたいな生理的な問題もあるかもしれない。

私は何者で、社会的に確固たる立場があって、だから自分は生きる価値がある。

自信をもってそう言い切れるなにかを若さ以外に何も持っていない。

そういう時に若者の救いになるのは、人間全体や自分の人生に絶望しないで済む世界だ。まだまだ人生捨てたもんじゃないと思わせる環境が世界のどこかにあるという希望こそが、若者の命を繋ぎ止めるのだ。

 インターネットは出会わなかったはずのトラブルを持ち込みもするが、一方で、今も日本のどこか閉鎖的な環境を生きている若者に、世界の広がりを見せるにはとてもよいツールなのではないかと今は思う。

 

紀伊國屋がなかったら親父は死んでいた。

インターネットがなければ自分も死んでいた。

 

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▲命の親

 

それ以上可能性を感じてはいけない

 

 

めふぁにっきです。

 

今から4年ほど前、2015年の話。

人気コスプレイヤーTwitterで「私でシコるのは構わないけど私との可能性は感じないでほしい」と呟いて話題になった。この投稿はコスプレイヤーとしての偶像に対して劣情を覚えるのは問題ない、とはっきり言い切った点と、後半「私との可能性は感じないでほしい」という婉曲ながら強い拒絶を示した点で衝撃的だった。

 

「可能性」とは要するにコスプレイヤーとしての人格ではなく、本人と異性関係として交際に至る潜在的な可能性のことである。「ファン」と「表現者」というクリーンな関係性ではなく、それ以上の関係性に至りたいという願望を抱く男性ファンが存在してしまうのは善悪の判断はさておき自然なことだ。反対に、表現者側であるコスプレイヤーの中に、性的魅力の高さや潜在的なパートナーとしての魅力を強みにして異性のファンを集客している人たちがいるのも確かだ。

純粋な表現者なのか、商業的な地下アイドルなのか、いわゆる「裏垢」なのか、それぞれの個人やアカウントによってどれくらい露出するかといったスタンスの違いはあるだろうが、それらの間に引かれた境界線は曖昧になっている。性的魅力を取扱う界隈には常にトラブルが絶えることがない。

 

表現者側の立場としては、「迷惑な言い寄りをかけてくる」異性はファンとしての境界をわきまえない厄介客であり、「ファンとしての線を越えて個人としての可能性を感じる」ことがその原因だからそれはやめてほしいと考えるのもそう想像に難くない。

 

表現者としての論法はものすごく強いものである。

「自分は異性に対するアピールではなく、自分自身の表現として行っている」という大前提があるし、上に書いたように『性的魅力の下駄を履いて人気を集めている』というような書き方をすればすぐさま性差別の論理に持ち込まれて叩かれる。

だがあえて書けば、どだい「私の表現に性的魅力を感じてください、でも私の個人的人格に潜在的パートナーとしての魅力は感じないでください」とファンの内面に対して命令するのはちょっと無理な話というか、少しムシが良すぎる話だと思うのだ。

政治的に公正な世界がどれほど進もうと、人間にとって性的な魅力と潜在的なパートナーとしての魅力は生理的に分かちがたく結びついている。

アイドル業界もそうだが、(男女にかかわらず)性別の魅力を取り扱う業界ではそのことを口にはしないがよく理解している。

それゆえに顧客と表現者間にはクリーンな関係性でやっていきましょうという暗黙の了解があり、表現者側は表向きには「恋愛という選択肢を封じています、私は分を守ってくれるファンのため表現に徹します」という建前を守り、顧客は代わりにファンとしての分を守る。顧客は、表現者に対して擬似的ではなく本当の恋愛感情を持ち、それを行動に移すことを自ら禁じるのである。

 

先のコスプレイヤーはそのような暗黙の制約の下にはなかっただろう。

「熱心な顧客にはなってほしいが、異性獲得に積極的な側面はこちらに向けないでほしい」

潜在的パートナーとしてはアウトオブ眼中なので、こっちを見ることさえやめてほしい」

1個人の要求としては至極もっともだが、それを言ったらビジネスとしてのタテマエは全部おしまいになるある種の「お約束」を先のコスプレイヤーは破ってしまったのだ。

そもそもそんな「お約束」自体してはいないので破るもへったくれもないのだが、性別としての魅力を媒介とする表現者の、「業」というか本質がこの1件ですっかり浮き彫りになってしまった。

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▲タバスコとティラミス

 

話はだいぶ飛ぶが、一般人としての私たちはどこまで異性に「可能性を感じたらいけない」のだろう。

 

「可能性を感じる」前に、目の前にいる人間の性的嗜好がそもそもヘテロかどうか、決まったパートナーがいるか、そもそも自分は誰かに想いを伝えたら嘔吐とかされないか、いろいろ考えなくてはならない。

考えないで行動してから判断すればいいともよく聞くが、「可能性を感じられたら不快だ」とはっきり表明される時代である。挙げ句DMやらラインやら晒されて知らないところでクソ呼ばわりされる時代である。

 

大学の時、男の子が女の子に告白したら、後日女の子が「あいつに告白されてショックすぎてガチ泣きしてしまったわ」と言いふらしていた。

学内で済むならまだいい方で、今はやりとりを全部SNSで晒されるかと思うとやはり男女を問わず、そもそも得体の知れない他人に「可能性」を感じること自体がものすごくリスキーな行為なのかもしれない。

 

人間にそれ以上可能性を感じてはいけない。

 

情報の海でビート板

 

めふぁにっきです。

 

日本語でいう「情報」という言葉は、集約されすぎた言葉というか、かなり幅の広い言葉である。英単語であればdata(情報)、information(情報)、intelligence(≒情報)に相当するニュアンスが日本語の「情報」には含まれる。

流石に最近ではintelligenceはインテリジェンスと訳されるが、やはり日本語の範囲では単語として区別されず、ゆえに日本語による思考でも区別されることは少ない。諜報の方面では馴染みの深い言葉ではあるが、日常で用いられることは少ない。

どんな言語でも、単語の区分はその背後に想定されている非言語的な世界観を反映する。つたないかもしれないが、日本語でその背後にある世界を記述してみる。

妙なことを書くと英文科の読者に後でしばかれる。

 

先に述べた3つの「情報」はdata,information,intelligenceの順で「人間にとっての解釈の深さ」が進んでいく。解釈が進むと「情報」は人間にとって意味のあるものへと純化していく。これらの区分は世界に霧のように漂う情報を集め、純化し、意味のあるものにしていくまでの過程を表現している。

また一方で漠然とした霧のようなものを集め、純化し、「意味のある部分を切り取る」行為は、同時に「意味のある部分以外を切り捨てる」ことでもある。何かを選び取ることは、何かを選び取らないことでもあるのだ。

 

この世界にはノイズを含めた無数の信号で溢れており、その一部だけでは人間にとって何の意味もなさないし、何らかの判断の根拠になることもない。ただ漫然とそこに横たわっている事実、これがdataである。現代ではセンサーや端末、あるいは人間の五感を通してdataが世界から同時にあらゆるところで取得されている。

次に、dataを何らかの形で「切り取り」、人間にとって意味のあるものにする。すなわち何らかの形で加工され、人間にとって意味を成す形にしたものがinformationである。

 dataはただ漫然とそこにある事実に過ぎない。統計であれば、dataは個々の要素の数字の羅列である。多くの要素を漫然と眺めて何事かが判断できればいいが、大抵の人間の脳はそうはできていない。

数多ある要素の集団を1つのグループとみなし、集計するなり掛けるなり割るなりなんらかの操作を経た上で「この要素の集団はある尺度で測るとどれくらいなのか?」に対する1つの答えが統計量である。集計された結果そのものには、もともとのdataにはあったはずの、個々の要素に関する「情報」は備わっていない。

処理に伴って欠損したといってもいい。

大きな意味を取る代わりに、それ以外の細々したものは捨てざるを得ないのである。

 

そうして初めて人間にとって意味のある、人間の脳の能力で処理できるサイズのinformationとなる。事実に対して尺度や基準といったモノサシを当て、集約され、選択されてはじめて浮かびあがるものがinformationなのである。

 

informationをさらに集め、比較、評価し、行動や戦略の判断の根拠となるまで純化された「情報」がintelligenceである。そうざっくり言ってもよくわからないが、intelligenceには必ず判断や行動の意思決定を下す主体が存在する。意思決定を下すためには、現状主体が置かれている状況を把握しなくてはならない。

敵がどこにいるかわからない戦場に指揮官とその軍隊がいるとしよう。

指揮官は敵そのものに直接遭遇することなく、敵の居所を掴まなくてはならない。

戦場では直接の戦闘以外にも様々なことが起き、指揮官の耳に無数の「情報」が入る。それは敵の偵察かもしれないし、味方どうしの喧嘩かもしれないし、「水鳥が急に飛び立つのを見た」という証言かもしれない。決定的に敵と遭遇しない限り、「敵がどこにいるか」あるいは「敵の数はどれくらいか」に関する「情報」は断片的であり、精度もバラバラであり、まったく嘘の情報も含まれているかもしれない。

そもそも敵などその戦場にはまったくいないかもしれないのだ。

 

この時、指揮官はすべてのinformationの間に優先度をつけ、捨てるものと取るものを選び、決して揃うことのないパズルのピースから全体像を浮かび上がらせなくてはならない。必要以上の先入観は間違った像を結ぶことに繋がりかねないが、まったく何の仮説もない中ではinformationを並べたところから何も得られない。

この綱引きのような営みの中で下される判断の根拠となるような「情報」のあり方がintelligenceである。

 

さて、ここまで世界における人間と「情報」の関わり方について書いた。

これからの世界における人間と「情報」について考えていきたい。

 

電子計算機、コンピュータの出現によって、人間は膨大な補助演算能力を獲得した。

電算機以前、「コンピュータ」とは人間の計算担当者を表す言葉であった。人間が自然からdataを取得し、informationを抽出する営みはすべて人間の脳の演算能力の範囲に収まっていたのである。

それからほどなくしてセンサーが生まれ、世界中に普及し、ネットを通じてセンサーが集めたdataが手に入る時代がやってきた。dataは各所でinformationに集約され、現代人1人1人のもとに届く。

しかしコンピュータが生まれ、センサーが世界中にばらまかれるまでの間に人間の脳の演算能力はほとんど変化していないのだ。地球のどこかで生まれ、たえず流れてくる情報を取り込むために睡眠時間はいくぶんか短くなったから、処理能力はむしろ落ちているかもしれない。

現代人に足りていないのはinformationではなく、無数の情報の海の中で「こうするべき」「こうあるべき」を総合的に決定する能力である。古代から変わっていないとしても、現代では情報の奔流の中で相対的に能力が落ちているのだ。

そうなった現代人はどうするのだろうか。

人工知能が解釈のための補助装置になってくれるかもしれない。

敵か味方かはわからないが。

今まで通りまた人間にメガネやスマホ以上の補助装置がついて、人間ver2.0(β版)にアップデートされるだけという考え方だ。

 

あるいは「正しい情報」を一方的に教えてくれるカルトのおじさんについていった方が幸せかもしれない。

彼もまた敵か味方かはわからないが。

 


キュウソネコカミー「ファントムヴァイブレーション」PV

スマホはもはや俺の臓器

 

 

売りに出される関係性

めふぁにっきです。

 

好むと好まぬとにかかわらず、市場経済は個人の財やプライベートの時間を細分化し、自らのうちに取り込んでいく。昔からその流れはあったが、個人が高性能な携帯端末を所持するようになり、アプリという形で技術的な整備がなされたことが追い風となった。

カーシェア、シェアハウス、Uberによる配車サービス、パパ活

車の乗り合いも、数人での共同生活や居候も、パトロンとの逢瀬も昔から存在はしていた。だがほとんどの場合、それらは人間と人間との「関係性」の内側であって時にその間に多少の貨幣が媒介されることはあっても、市場としてオープンにされるものではなかった。

市場の最大の効用とはなにか?それは貨幣という「信用」を通じて全く見知らぬ人間どうしが協力しあえることだ。東京から京都に行っても、十分な額の日本円さえもっていれば基本的には宿泊もできるし、食事もできる。もちろんホテルの経営者や従業員と私は知り合いではないが、そこに取引が成立するのは両者の間に通貨を媒介にして共通の「信用」が前提になっているからだ。

 もし仮にそこに通貨が媒介されていなければ、ホテルの経営者の好き嫌いで私は宿泊を拒否されるかもしれない。通貨を媒介することによって血縁でも地縁でも結ばれていない人間同士が協力関係を結ぶことができているといえる。

 

 市場を媒介として多くの見知らぬ人間と取引できるようになった一方で、人間には市場に媒介されない関係性という別のシステムも存在する。地縁、血縁、婚姻関係、友情、性的関係…それらは貨幣以前から存在している価値交換のシステムだ。信用を司るシステムという意味では貨幣の兄弟だが、より近くのもの、似ているものを強く結ぶ「関係性」のシステムである。

同じ信用を媒介するシステムなので、時に競合を起こす。親しい人物が自分の経営する店に飲みに来た…などである。この場合、知り合いだから料金を安くするなど「関係性」貨幣のシステムの内部に取り込むことで調整が可能である。

 

「関係性そのもの」が貨幣のシステムに取り込まれたら何が起きるのかという話だが、普段ガールズバーで働いている女の子がプライベートで人と話している時、ふと、どうして今この時間にお金が発生しないんだろう…?という考えが脳裏に浮かぶことがあるという。

これはプライベートの中に市場の価値判断が割り込んできたケースである。関係性の範疇にあり、交換の余地がないと考えられていた"プライベートな"行為に市場で取引される価値を見出した時、彼/彼女はどう対応するのか。

 

「なぜお金が発生しないのか?」という想いがそこにある時点で、相手をもはやプライベートの「関係性」には組み込めない他人と認識するのか。

それともあくまでもプライベートはプライベート、仕事は仕事と「時間」で切り分けるのか。

そもそも人間にそんな切り分けが可能なのか。

 

別にガールズバーの従業員だけに起こることではない、家事から相談相手、結婚相手に至るまで外部化されるこのご時世である、そのうち毎月友人から「お友達料金」の請求が送られてくるかもしれない。そうなったとき、一緒に遊んでいる友達にふと「来月からこいつのお友達料金を払う必要があるのだろうか」などと考える日が来るかもしれない。

 

また、貨幣と比較して現代の関係性の弱体化にも着目しなくてはならない。

家庭、親族、友人、地域の共同体など「関係性」が代替不可能なものと見なされていた時代は過ぎ去っている。同じ職場であっても別々の個人として行動するのが良しとされ、そこに代替不可能な「関係性」を持ち込んだり見出したりするのは時にダーティであるとさえされる。

一方で、矛盾しているようだが多くの優良大企業はOB採用や人脈・インターン採用といったコネクションに走り、SNSでも相互フォローにある有名人同士のコネクションが重要視される。伝統的な社会の価値観が壊され、社会の関係性が個人を束縛するとして否定される反面、それを資産として守り続けている人々もいるのだ。

 

今後やってくる時代は、伝統的な「関係性」を財貨の取引なしに持てるものと、金を払って関係性を維持しなくてはならない「関係性」を持たざるものに極端に二分されるのではないか。

 

はー、金持ちのダチになって、友人のよしみとか言って人の金で焼肉が食べたい。