めふぁにっき

すべての独身が自由に楽しく生きられる世界のために

時を待つ囚人のように

星新一ショートショートに、火星に流刑にされる囚人の話が出てくる。


『処刑』というあまりにそのままなタイトルがついている。


火星に流刑にされた囚人は、一つの球を持たされる。


この球は、死刑執行装置と生命維持装置が一体になったもので、小型の核爆弾が内蔵されている。火星は、かつて開拓され、その後に放棄されたのか、シェルターになるような旧市街と砂漠からなっている。ただし水はない。

そこで囚人は貴重な水を得るために球に頼らざるを得ない。

球についたボタンには2つの役割があり、1つは水の供給、もう一つは、非常に低確率ではあるが、小型の核爆弾が炸裂して処刑を執行する役割。

非常に巧妙な仕掛けで、火星には何人も同様の囚人が送り込まれているにもかかわらず、それぞれはこの処刑から逃れることができない。


結論から言うと、主人公である囚人は、ある悟りを得て、死への恐怖から解放される。

 

火星における死と、地球における死とに、実は何の差異もないことを知る。


地球における死は、複雑で、あまりに巨大であるがゆえに全貌は不可視。

一方で、火星における処刑は、原因と結果が明瞭で、ただ確率のみがその場を支配する。そして、非常にコンパクトである。


主人公は、突然、この事実を悟る。

あらゆる行動が確率に左右されて結果を生む、結果は、自らの運命を決めている。

そのうちの一つが「死」というだけだ。火星ではこの構造が明瞭になるだけだ。


その時がいつであれ、我々は日々を生きる。

現代人は、驚くほどに自らの終焉について自覚しない。

古代ローマでは、祝宴の最中に、使用人が主人に「メメント・モリ」と囁き、今この瞬間の享楽と、必ず訪れるその身の終焉に強烈なコントラストをつけていたという。


伝統社会において、死を自覚するとは、「己の終わり方を自ら決める」ということだ。

伝統社会でも、現代社会でも、死は、文字通り本人の死角から迫りくるものだ。

その予感があっても、兆候があっても、その瞬間のありさまを自ら決めることはできない。

仮に自害であったとしても。


その瞬間をどう捉えて生きるか、これだけが死に正面から対峙する唯一の手段である。


敬虔なカルヴァン派として知られた街の名士は、ある日の夜中に目覚めて絶叫したという。

彼らは「確証の教理」で生きている。

救われるかどうかは予め決まっている。そこに人間の願望や交渉の余地は存在しない。

日々を「救われる側」として生きることで、自分が確実に救われる側であると確信しながら生きるしかない。


自らが救われる側であると確信する。

周囲に対して救われる側である演技をする。


絶対救われない/救われないかもしれない/救われるかもしれない/絶対救われる


破戒者。これは非常に楽だ。絶対に救われないのだから。

確証の教理を生きる名士は、救われるかもしれないと絶対救われるの間にいる。

しかし、命題は常に真か偽かしかない。絶対救われるか、それ以外かだ。


時を待つ囚人のように、己の救いの確信を積んでいる。

それでも答えはすでに、宇宙創生の時点で定められている。

そうであれば、そこまで積み上げた生涯の全ては無駄だ。


まったくの無駄か、救われるための必定か。


カルヴァン派の男は、このような命題に向き合うことで、己の「死」と向き合っている。

強盗か、疫病か、老衰か、あるいは酔って転ぶか、なんであれ終焉は確実に待ち構えている。その時が明日だとしても、「救われる側」である己を演じきる。